~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (7-01)
その朝、亀川は三時過ぎに眼をさました。前夜、村中と西田から、今暁決行すると聞かされていたので、すぐ宮城の方に向って耳をすましtが、まだ時間が早いのか、銃声はおろか、何の気配も感じられなかった。大雪のせいか、ふだんよりも余計森閑としている。
── 嵐の前の静けさかも知れぬ。
そう思って、亀川は身支度をし、電話で自動車を呼んで世田ヶ谷の真崎大将邸へ駛らせた。
西田から依頼された事柄をはたすためである。外は思ったよりも大雪で、自動車はしばしば雪の深い個所にはまり込み、立ち往生するのではないか、と懸念された。
だが無事に、四時半頃、真崎邸に着いた。
真崎大将は、まだ寝床に入っていたが、家人に来意を告げると、すぐ起きてきて、応接間で会った。
「今日の明け方、歩一と歩三が起って、重臣連中を襲撃するそうです」亀川はまっすぐに切り出した。「それで青年将校の連中は、事態の収拾を閣下に御願いしたい、という意向でありますから、何分若い連中の止むにやまれない気持をお掬み取りになって・・・是非閣下に起っていただきたいのです」
すると真崎はびっくりした面持ちで、亀川をじっと見据えていたが、やがて視線をあらぬ方へそらして、ぼそっと声を落とした。
「もしそういうような事が起ったら、今までそういうことがないようにと永い間努力して来たことが、全部水泡に帰してしまう」
真崎の童顔には、飛んでもないことをしてくれた。といった迷惑そうな表情が、浮かんだり消えたりした。
亀川は、なお青年将校や西田あたりが、陸軍大臣に柳川中将を要望していることや、上部工作について海軍の小笠原長正伯や山本英輔大将、本庄侍従武官などに協力を求める手筈になっていることを話して、
「しかし今暁決行するということは、村中と西田から聞いただけで、事実かどうかはわかりません・・・もし事実でしたら、またお知らせいたします」
亀川は十分ぐらい話して、真崎邸を辞去した。
それから亀川は、自動車を千駄ヶ谷の鵜沢博士邸へ向けた。── 前夜、電話で、博士が品川発六時五十分の汽車で興津に赴くことを確かめてあったからだ。
鵜沢邸に着くと、博士はもう朝の朝食を済ませ、身支度をすっかりととのえていた。
「今朝早く歩一と歩三の青年将校が起って、重臣を襲撃するそうです・・・」
亀川は、真崎に話した通りを、ここでもしゃべった。
「青年将校が・・・へえ!?」
鵜沢は最初はちょっと驚いたような顔つきだったが、だんだん平常さを取り戻し、半信半疑の顔つきで、
「まあ、こうして用意も出来たことだから、行って来ますよ」
「それでは、相沢の公訴取下げについて、ぜひともご老公の御諒解を求めていただきたいのですが・・・」
「話してみましょう」鵜沢は、肯いた。
亀川は、ここも十分ぐらいで辞去した。
芝の家へ帰る途中、亀川はふと思いついて自動車を赤坂表町の高橋是清邸の前を通らせた。
すると案の定、門の前に銃剣を持った兵隊が二名、警官が一名、物々しく警戒しているのが眼にとまった。
── やったな!
亀川は思わず息を詰めた。
車を自宅へ向けて駛らせながら、亀川はまたふと気が付いて、腕時計を見た。六時二十分 ── 鵜沢博士の乗る汽車は品川発六時五十分である。今から品川へ直行すれば、十分間に合う。
亀川の脳裡には、鵜沢に同行して西園寺公を訪問することが、せわしくうかんだ。── 西園寺に、青年将校の純真な希望を説明し、事態収拾のため、真崎内閣を奏上するよう要請しよう!
「君、品川駅へ行ってくれ、急いで!」
亀川は運転手に命じた。
2022/03/24
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