~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第九章 お前らの心はようッく分っとる
第九章 (2-01)
歩三の新井中尉は、自宅で前夜一時過ぎまで、読書していたのでぐっすり睡り込んでいた。
と、未だ夜明け前と思われる頃、ドンドンと荒々しく門を叩く音で眼をさました。
新井はびっくりして、飛び起きた。その時新井の頭をサッとかすめたのは、歩一の栗原中尉の姿であった。
── オレが安藤サンに反対したのを知って、栗原が呶鳴り込みに来たかな・・・?
そうぼんやり感じた。
だが、いずれにしろ、門が激しく叩かれている・・・急いで褞袍どてらを着込み、玄関を出ると、まだあたりは暗く、積雪の白さだけが眼に飛び込んだ。
門の外には、中隊の当番兵が立っていた。
「何だ・・・お前か・・・何事だ?」
「中隊長殿、非常呼集です・・・演習でない、本物の非常呼集です・・・鈴木少尉度のが、中隊を指揮して、どこかへ行ってしまわれました!」
兵隊の顔は緊張で硬ばり、緊張と驚愕とで歯の根もあわない。
「鈴木少尉だけか」
聞き返すと、安藤の第六中隊以下各中隊が完全武装して、実弾を携行して、出て行った、という。
── とうとう、やった!
新井ははげしく胸を突かれ、一瞬眼がくらんだ。安藤が起つ前には、少なくとももう一度ぐらい相談があるだろう、とたかをくくっていただけに、足許をさらわれた感じであった。
「よしッ、すぐ行く」
新井は伝令の兵を返して、急いで武装をととのえ、家を飛び出した。
まだ人も電車も通らない車道には、雪が真白に積もっていた。その上に大きな足跡が転々と続いているのは、伝令が走って来た足跡である。
新井は行くを踏んで道を急ぎながら、安藤がなぜもう一度相談してくれなかったかを、歯噛みする思いで、頭にうかべた。あの来る日も来る日も、中隊長室で瞑想めいそうにふけっていた安藤・・・その安藤がついに起った! 恐らく安藤は決心するまでには、人知れずずいぶん悩み、考えに考えた挙句のことだったに違いない。だが、その安藤の悩みに悩んだ果ての決心に、少しも気がつかなかったとは?
そういえば、二、三日前の昼、将校集会所での安藤の様子は、少し変だった。── 集会所の食事がすんで解散となり、一同があわただしく出て行ったあと、安藤と野中と、それに坂井ら中少尉が数名残って、窓際に集まっていた。
新井はふと、これは怪しい、と思ったので、わざと椅子に腰かけたままタバコをふかしていた。別に監視するでも、スパイするわけでもなかった。ただ何となく、怪しいと思い、それが何であるかを知りたかったのだった。
新井の近くには、第一中隊長の矢野大尉も残っていた。矢野大尉はわば統制派と目されている人物で、これも何か勘づいたのか、安藤らの話しに耳をたててる風であった。
この矢野大尉と新井とが残ったのは、全く偶然のことで、二人に何らつながりがあろう筈がない。だが、今かから考えれば、安藤らの眼にはこう映ったのだろう ── 反対派の二人が監視している、と。
安藤が、突然、青山墓地の向こうを指して言った。
「ずいぶん富士が真白だ」
今から思えば、それは全く不自然な仕ぐさだった。
だが、その時の新井は別に怪しみもせず、陽の射す窓際によって、遥かに望見できる富士の秀麗を、今更のように驚嘆して眺めたのだった。
2022/03/31
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