~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第九章 お前らの心はようッく分っとる
第九章 (3-01)
新井が中隊に入ると、薄暗い電燈の下に、まだ兵隊が幾らか残っていた。鈴木少尉は初年兵を主体とし、その助教の下士官や助手の二年兵を連れて出動したので、二年兵だけが去就に迷形で、四十名ほど残っていた。
カラン洞な舎内には、蹶起趣意書がバラまかれていた。「尊王討奸」と書いた、紙製の旗も一本残っていた。
「あの温順すぎるほどおとなしい、清原から譲られた恋人のことで顔を赧らめていた鈴木が・・・まだ西も東も分からぬ初年兵全部を・・・無断で連れ出した・・・!」
新井はガラン洞な中隊を見廻して、心の中でそう呟いたが、しかし鈴木の軽挙妄動を叱ったり、怒ったりする気持にはなれなかった。
── 出てしまった以上は仕方がない・・・これからどうしたらよいか・・・
それだけで心が一杯だった。
隣りの中村少尉の預かる第九中隊は初年兵はもちろん二年兵も下士官も全員無事だったが、向いの安藤大尉の第六中隊は、もぬけの殻だった。第一中隊は、坂井中尉が高橋、麦屋少尉と共に下士官兵約二百名を連れ出し、第二中隊は将校の参加者はなかったが、渡辺曹長以下の六名の下士官が、二年兵の一部を率いて、坂井部隊に加わった。それに第三中隊は清原少尉 ── 彼は一ヵ月前に結婚したばかりだった ── 第七中隊は常磐少尉がそれぞれの中隊の非常呼集を行い、蹶起の趣旨を告げ、鈴木の率いる第十中隊の下士官兵と共に、合計五百名が野中大尉の指揮の下に、警視庁を襲撃した模様であった。なお野中部隊には、機関銃隊から立石曹長以下約七十名が、重機関銃八挺を携行して参加していることも分かった。
夜が次第に明けそめる頃には、営外居住の将校が続々と詰めかけて来た。一同は、連隊本部に集まった。
第一中隊の矢野大尉と第三中隊の森田大尉は、部下を大量に連れ出されたので、カンカンに憤った。・
「── 中隊長の命令もなしに、軍隊を使用するとは何事だ!」
しきりにそうわめき立てた。
その喚き方には、中隊長という自分の権限や面子めんつにこだわっているような末梢的な響きが籠っていた。
新井はムカムカする腹立ちを覚え、先任将校に対してつい呶鳴ってしまった。
「中隊長の命令なぞという生やさしいものではありません。天皇陛下です・・・陛下の御意図が奈辺なへんにあるか・・・あなた方には分かりませんか!」
二人の先任将校は、新井の見幕に押されて、押し黙ってしまった。
だが、一方、将校団の中では、
「── 大したもんだ、雪の中の払暁攻撃は満点だ、赤穂浪士以上だぜ!」
そう蹶起部隊の行動をほめそやす佐官も居れば、
「── 連中が飛び出したのに、日頃の青年将校が引っ込んでいてはダメじゃないか!」
そう言って、新井たち若い将校の肩を叩いてケシかける先輩もいた。
また事の成り行きを懸念する若い将校の中には、
「── 安藤サンは、とうとうやったか」
そう呟くように言っただけで、あとは何事も言わずに考え込む者もいた。
連隊本部はてんやわんやの混乱で、何をどうしてよいやら分からず、いたずらに議論百出の有様である。
それに肝心の連隊長は着任したばかりで、連隊内の事情にうとく、そこへ前古未曾有の大事件にぶつかったので、何をどうしたらよいか、処置に迷っている風だった。
連隊長は、沈痛な面持ちで連隊本部に姿を現わしたが、そこに居合わせた将校たちに向って、意見を求めた。
「一体、どうしたらよいか」
だが、将校たちは互いに顔を見合わせただけで、これという具体的な意見も出なかった。
連隊長は、また重い足取りで自分の部屋へ帰って行った。
2022/04/01
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