~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第九章 お前らの心はようッく分っとる
第九章 (4-01)
小藤大佐の一向は、溜池で歩哨線にひっかかった。軍帽に白帯を巻き外套の上に背嚢を背負った兵が、着剣した銃を擬して、型の如く停車を命じた。
「停まれッ・・・誰か」
「第一連隊長小藤大佐と山口大尉だ」
山口が窓から首を突き出して言うと、歩哨はハッとした顔で、すぐ捧げ銃の敬礼をした。
「おい、誰か一人・・・首相官邸まで案内してくれんか」
山口が言った。
するとすぐ別の兵が飛び出してきた。
「御案内します」
兵隊はステップに乗って、片手で自動車の窓の柱を抱き、片手に銃を持った。
自動車は走り出した。ソファの類を持ち出してバリケードが築いてあって、それ以上車は入れない。
仕方なく車を降りた。
運転手に料金を払う、中年の、人の好さそうな運転手、物々しい異常な状況に怯えきって、すっかり青ざめていた。
「帰りは、大丈夫でしょうかね・・・」
山口は案内して来兵隊尾を付けて、車を帰した。
首相官邸へ入ると、大広間や廊下に兵隊が充満していたが、将校が一人も見当らない。兵隊たちははじめて経験した異常な出来事に、酔ったように興奮し、眼をギラギラ光らせて何やら声高に喋っていた。
「おい、栗原中尉はどこだ?」
そう訊ねても、誰も満足な返事が出来ない。
大広間から、顔見知りの下士官が出て来た。眼のふちを赤く染めている。
下士官は山口を見て、嬉し気に声をあげた。
「岡田をやりました!」
栗原中尉の居所を訊ねる遁と、下士官ははじめて山口らの来意に気づいたかのように、しゃちこばって言った。
「ハッ。栗原中尉殿は、いま陸軍大臣邸に行って居られます」
大広間をのぞくと、こもかぶりの酒樽が五、六樽ならんでいて、兵隊たちが入れ代わり立ち代わり柄杓ひしゃくで酒をあおっていた。岡田首相は名うての酒飲みだし、ちょうど総選挙が政府の勝利に終わったばかりだったので、菰かぶりじゃ方々から持ち込まれてあったのだろう。兵隊たちはそれを分捕り品にして、飲んでいたのだった。
山口は雪の中を歩いて陸相邸に赴いた。
陸相邸では、第一会議室の広間で、川島陸相と香田ら蹶起部隊の代表が会見し、押し問答の最中だった。
広間へ一歩入るなり、殺気だった空気がサッと山口の頬をかすめた。
正面に、幅二間もあろうかと思われる墨絵の富士山の額がかかっている。それを背にして川島陸相が小松秘書官とならび、その前に、緑色のクロースをかけた会議机をへだてて、香田、村中、磯部、栗原が立ったままで、睨み合っていた。その傍らには、いつやって来たのか、退役陸軍少将の斎藤劉が大きな身体を古ぼけた軍服に包んで、控え役のような恰好で折衝の様子をじっと見守っていた。
斎藤少将はアララギ派の歌人として有名であるが、国家革新思想の持ち主で栗原らの共鳴者であり、蔭のパトロンでもあった。
川島陸相に前には、ガリ版刷りの蹶起部隊趣意書が、突き付けられたままの恰好で、置かれてあった。
2023/01/05
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