~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第九章 お前らの心はようッく分っとる
第九章 (4-04)
だが、その「午前七時までに招致すべき者」のうち、斎藤少将、小藤少将、山口大尉の三名は、それより早くすでに陸相官邸に現わしていたのである。
川島陸相は、思いがけない大事件に茫然としてしまい、何をどう処置したらよいか分らない、といった風だった。彼の伊予猿と呼ばれる、四角な、蟹の甲羅のような顔は生気を失って、土色を帯びていた。
「この中には・・・」川島は眼鏡をかけて、小松秘書官の書き取った要望事項をのぞき込んでから、「自分として、やれる事もあれば、やれん事もある。勅許を得なければならんことは、自分としては何とも言えん」
要するに、なまくら問答である。
「そんななまくらなことをいっていないで・・・」斎藤少将が業を煮やして、卓を叩いた。「勅許を得なければならん事があれば、至急に勅許を得たらいいんだ。それが陸軍大臣たる君の任務だし、責任でもある・・・何しろ事態は、一刻も早く収拾を必要とするんだ。いたずらに遷延したら、事態は悪化するばかりだ」
斎藤は、川島とは陸士の同期であった。
する、そこへ渡辺教育総監襲撃部隊から伝令が来て、目的達成の報告があった。
磯部がさっそくそれを川島に伝えた。
「大臣、ただいま渡辺教育総監襲撃部隊から報告がありましたが、目的は完全に達成したそうです」
川島は青ざめた顔を振り向けて、
「皇軍同士が、撃ち合っちゃいかんな」
低く、喘ぐように言った。
栗原がそれを聞いて、語気鋭く詰め寄った。
「渡辺大将は皇軍ではありません、統帥権干犯の逆賊です・・・逆賊を討つのに何の不思議がありますか・・・大臣は、まだ我々の蹶起の精神がお分かりにならんのですか」
川島は「ウウッ」と言葉に詰まって、
「皇軍ではないのか・・・」
そうか、といった顔で、無意味に肯いた。
「とにかく、真崎大将、古荘次官、山下調査部長、今井軍事課長を・・・至急に招集して下さい。そしてわれわれと一緒に事態収拾方を協議するよう取計って下さい・・・大臣がその処置をとられるまで、われわれはここを一歩も動きません」
香田と村中が、こもごも喰いさがった。
川島は、また「ウム」と詰まったが、今はそうするより仕方がない、といった顔で、小松秘書官に電話でそれらの人たちを招集することを命じた。
すると、そこへ丹生中尉が興奮した面持ちで入って来た。──丹生は、陸軍省と陸相官邸の占拠後、内外の警備を担当しているのだった。
「正門に、将校が続々と詰めかけて来て、とても制止ぐらいでは間に合いません・・・どうしましょうか」
丹生は、機関銃掃射でもやりかねない、噛みつくような顔だった。
「手荒なことをしちゃ、いかん」磯部が言った。「鄭重に断わって、省内へ入れないようにしておいてくれ」
丹生は、黙って出て行った。
磯部は丹生の不満そうな態度が気になったので、状況を見るために、そっと席をはずした。
玄関を出ると、調査部長の山下奉文少将が雪を踏んでやって来るのに、出会った。
磯部はいつか山下を訪問した時の、暗示に満ちた同情的な態度をいそいで頭にかけのぼらせ、敬礼ももどかしく、噛みつくように言った。
「閣下、やりました・・・どうか、あとを善処して頂きたくあります」
すると、山下は赤銅色の顔を引きしめて、
「うむ」
肯いたきりで、あとは何も言わずに、官邸へ入ってしまった。
正門の前では、丹生部隊の警備兵に阻止された将校たちが、一ト塊になっていた。
一人の少佐が磯部に向かって、文句を言った。
「おい、あんまりヒドイじゃないか。兵がわれわれ将校に銃剣を突き付けて誰何するとは、何事だ?」
その通りだ ── と磯部は胸間に天保銭をつけた少佐を見つめて、胸の中で軽蔑した。── すこぶるヒドイのだが、軍隊はすでに何年か以前に、自覚すう兵と下士官によって、将校などという者を否定しようとしていたのだ。全将校が貴族化し軍閥化したから、ここに新しい自覚運動が起こった。それが上部からの弾圧にあうたびに下へ下へと移って、今や下士官兵の間に燃えさかっているのだ。貴様らのような自分の立身出世のためには、兵の苦労もその家庭の窮乏も知らぬ顔の半兵衛で鰻のぼりした奴には、それは分らんだろう。貴様らの背後を見るがいい・・・渡辺警視総監を襲撃して帰って来た安田、高橋部隊の下士官兵は、軍用トラックの上で万歳を連呼して昭和維新を祝福し、静止させることの出来ない滔々の革命的気勢を示しているではないか。これが革命軍隊の姿だ・・・この革命軍隊の気魄の前に、陸軍省の小役人の一少佐が何であるか。兵に受験を突き付けられて、恐ろしかっただろう。ドキンとしただろう・・・平素威張り散らしていた貴様らが、叩きのめされる日がついに来たのだ!
だが、磯部は少佐に向かって、さあらぬ態で軽く言った。
「ああ、そうですか。仕方がないですね」
するとその時、一台の自動車が歩哨の停止命令もきかずに警戒線を突破し、門内に辷り込んで来て、停まった。磯部が近づくと、真崎大将がドアから降り立った。
磯部は、急に百万人の力を得たような気持になり、
「閣下」と呼びかけた。「統帥権干犯の賊どもを討つために蹶起しました。目的はすべて達成しました・・・・閣下は、状況をご存じでありますか」
「とうとうやったか」真崎は興奮した面持ちで肯いた。「お前らの心は、ようッ分かったとる、分っとる」
「どうか、あとの事を善処して頂きたくあります」
「うむ、うむ・・・・」
真崎は大きく頷きながら、官邸内に入った。
2023/01/07
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