~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第九章 お前らの心はようッく分っとる
第九章 (5-02)
もはや時間は八時を過ぎていた。九時になれば、陸軍省や参謀本部の登庁時間だから、三宅坂で電車を降りた将校たちがドッと登庁してくる。これをどう捌くかが問題であった。それでなくてさえ事件突発を知って続々と陸軍省の正門に集まって来る将校を捌ききれない、という報告が何度も来ているのだ。
「おい、九時になるとドッと登庁してくるが・・・これをどうする?」
山口が村中をつかまえて言うと、村中はポカンとした顔つきで、
「そうですか。九時になると、みな来る・・・これはちっとも考えに入れたなかったな」
苦笑して、頭をかいた。
蹶起部隊にその対策がないとすれば、別の方法で登庁を喰い止めるより外なかった。
山口はフラフラと起ち上がった川島に向かって言った。
「大臣、九時になりますと、将校がみな登庁して来ますが、これを中に入れたら、収拾すべからざる混乱が生じます。命令を出して、これを喰い止めなけらばなりません・・・どう致しますか」
「君、どうしたらいいんだろう?」
川島は当惑しきって、すがりつくような眼で山口を見た。
山口はとっさの機転で、
「それでは山下閣下と石原大佐と適当に協議して処置しますが・・・それでよろしくありますか」
山下はずっと広間に居て協議に加わり、陸相に適当な助言をしたりしていたのだった。
「よろしい。そうしてくれ」
川島は、今は何でも任せる、といった顔で肯いた。
そして川島は広間を出て行った。
山口は陸相副官を呼んで、玄関脇の副官事務室で協議することにし、山下と石原を呼びにやった。
二人と共、何事だ、といった顔つきでやって来た。
「役所の登庁時間が迫ったいます・・・登庁したら、収拾がつきません。これを何とか喰い止めなければなりませんが・・・?」
山口が言うと、山下が赤銅色にふくらんだ顔を上下に動かして、
「よし」と言った。「── 陸軍省命令。陸軍省附将校は直ちに偕行社へ集合すべし」
「発令」責任者を言って下さい」
山口がそばから言うと
「── 発令責任者、山下少将」
山下は太い嗄れ声を押し出した。
「それでは、石原大佐殿の参謀本部の方は・・・?」
石原は、参謀本部第一課長である。
「── 参謀本部命令。参謀本部附将校は直ちに軍人会館に集合すべし・・・発令責任者、石原大佐」
石原も山下にならった。
もうそれを筆記したりしている暇はなかった。陸相副官が事務官に命じて、いきなり謄写版の原紙を切らせて、すぐ印刷にかかる。そして印刷する片端から持ち出して三宅坂附近一帯の電柱その他へ貼り出させ、集まって来る将校どもに配布することにした。
その時、陸軍省の正門内で、ちょっとしたトラブルが起こった。十数名の幕僚の一団が歩哨の制止もきかずに、門内に押し入って来たのだった。
丹生中尉が駈け込んで来て言った。
「とても制止出来ません・・・撃ちますよ!」
つづいて蹶起部隊の輸送の任務を担当した市川野重七の田中中尉が駈け込んで来て、磯部に告げた。
「片倉が来ています・・・!」
陸軍省軍務局課員の片倉少佐である。軍内統制派の少壮軍人で、「十一月事件」の際、陸相への要望事項の中にも「軍権を私した中心人物」として根本博大佐、武藤章中佐と共に、即時罷免が要求されている。それに村中、磯部は十一月事件で逮捕投獄され、免官にまでなったので、片倉に対する憎悪は他の青年将校よりも執拗しつようなものがあった。
「何ッ、片倉・・・?」
磯部は血相を変えて飛び出した。
不穏な形勢に、山下、石原、山口の三人も外へ出た。
2023/01/08
Next