~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第九章 お前らの心はようッく分っとる
第九章 (5-03)
すると片倉が玄関前の雪を踏んで、十数名の幕僚の先頭に立って叱咤しながら進んで来る。
「停まれ・・・停まらないと、撃つぞ!」
丹生中尉がしきりに怒鳴っている。
兵隊が十数名、射撃の姿勢で向き合っているが、片倉らの気魄に押されて、ジリジリ・・・とさがって来る。
「撃つなら、撃て!」片倉は満面朱をそそいで、怒鳴っている。「天皇陛下のご命令なくして皇軍を動かすとは、何事だ・・・オレは陸軍省軍務局課員だ・・・課員が登庁するのを、何故さまたげるのか!」
銃を構えた兵隊たちは、とうとう玄関の壁際まで退ってしまった。
山下少将と石原大佐が片倉のそばに寄って、陸軍省附将校は偕行社に集合すべきことを、なだめるような口調で伝えた。
片倉は、その処置が不満らしく、
「課長殿、お話があります・・・」と石原に詰め寄った。
側らで、片倉を撃とうか、撃つまいか、と様子をうかがっていた磯部が、その時無言でつかつかと片倉のそばへ寄った、と思うと、手にしていた拳銃を相手の顳顬部こめかみへ押し当てた。
一瞬、時間が停止した。
その中でにぶい爆発音がして、片倉はよろめいた。
「撃たんでも分る・・・!」
片倉は磯部を睨み返して、そのままなおも邸内に押し入ろうとでもするように四、五歩前に突進した。頭部から真赤な血がしたたり落ちた。
磯部は銃を捨てて、軍刀を抜いた。抜いたまま右手にさげて、残心の型で相手の倒れるのを待った。倒れたら留目を刺そうという構えである。
だが、片岡は倒れなかった。傍らに居合わせた同僚の軍事課員山崎大尉に支えられ、顔面に血を垂らしながら、磯部に向かって大声で怒鳴った。
「やるなら、天皇陛下の御命令でやれ!」
片倉は雪の上に点々と血をたらしながら、山崎大尉に支えられて、立ち去った。
玄関に押し寄せて来た幕僚たちは、それで怖気おじけをふるったのか、二人、三人・・・こそこそと立ち去ってしまった。
一人に中佐が、つかつかと磯部に近づいて握手を求めた。
「オレは菅波中佐だ。君らは、それほどに思っとるのか。もう分かった・・・オレもやるぞ!」
磯部ら青年将校の思想的指導者だった菅波大尉の実兄であった。風貌がどことなく似ている。
磯部は菅波中佐の骨ばった手を、固く握り返した。
「わたしは『粛軍の意見書』を出して免官になった磯部です。中佐殿の令弟三郎大尉には薫陶を受けました・・・国家のため、よろしく御尽力を願います」
磯部が菅波中佐と別れて邸内へ引返そうとすると、かつての上官だった栗橋主計正がやって来るのに出会った。
磯部は立ち止って敬礼した。
「菅野主計正殿によろしく伝言して下さい。片倉を殺したということを、一言お伝え下されば結構です」
すると栗橋主計正は、ちょっと考える風をしてから、
「死なないだろう」
ポツンとそれだけ言って、立ち去った。
死なない ── 磯部はハッとして呼吸を詰めた。背中に冷水を浴びせられたような気がした。
── 片倉は、はたして死なないのだろうか?
磯部は、頭部へ一発撃ち込めば、必ず死ぬものと信じ込んでいたのだ。それだからこそ、前日西田税と決別する時「失敗したら、これをやって、他の人に迷惑をかけないようにします」と言って、自分の頭部を撃つ真似をしたほどだ。
── 片倉は死なないのか・・・オレはやり損なったのか?!
磯部は雪の上に点々と落ちている血の痕を見つめて、茫然と立ち尽くしていた。── 後になってから分かったのだが、片倉は附近の病院につれこまれて弾丸を摘出し、生命を取りとめたのだった。
その時、石原大佐がとっとと正門から出て行く姿が、磯部の眼に映った。その後姿は蹶起部隊にはもう用はない、と言っている風に見受けられた。
一体、石原大佐は、何しに陸相官邸にいち早く駈けつけて来たのだろう? 彼は、彼なりに何か魂胆があって駈けつけて来たのにちがいない。だとすると、蹶起部隊の模様と部隊の配置の状況を見て、失望して引揚げたのだろうか・・・そうとも受取れる後姿であった。
磯部はつきのめされたような思いで、官邸内に引き返した。
2023/01/08
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