~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (2-02)
夜になると、真崎内閣の実現困難は、ますます確実性をおびてきた。そこで亀川は十時頃海軍省に山本大将を訪問し、情報を伝えた上で、組閣の大命が大将に降るかも知れないから、その場合は急速に組閣し、時局の収拾を図られたい、と申し入れた。
「大命がオレに?」山本は解せない、といった面持ちで言った。「先ず、そんなことはあるまい」
そこで亀川は二段構えとして、久原内閣説をも匂わせておいた。
だが、その頃には、参謀本部側にも山本内閣説がようやく台頭しはじめたのだった。
亀川が自動車で帝国ホテルに駈けつけると、ちょうど参謀本部の石原大佐が出て行くところであった。
二人は入口ですれ違ったが、別に挨拶も交さなかった。お互いに顔見知りの程度で、深い付き合いはなかったからである。
ボーイに案内されて一室に入ると、もうもうたるタバコの煙の中に橋本大佐、満井中佐、外にも名前も顔も知らない少佐一名、大尉二名が居合わせた。
満井がすぐ亀川に説明した。
「なっ閣説があった・・・はじめ石原大佐は、この際、皇族内閣を成立させるがよい、といったが、遂に立ち消えになり、蹶起部隊は真崎内閣を主張している。また橋本大佐は、建川内閣という意見を出されたが、結局何ら纏まらないので、石原大佐と、橋本大佐と、わたしの三人で色々話した結果、この際海軍の山本大将に出て貰うことが一番よい、ということに意見の一致を見た。そこで今しがた石原大佐から参謀次長に電話で話してもらって、次長の諒解も得たわけです。参謀次長には、折を見て上聞にも達するように取計っていただくつもりだが・・・それについて、山本大将と親交のあるあなたの御意見をうかがおうと思って、来て頂いたわけです」
「結構でしょう」と亀川は策士らしい飲み込んだ言い方で肯いてから、「それはそれで結構だが、それには先ず部隊の引揚げが先決問題でしょう。蹶起部隊は一応目的は達したのだから、いつまでも首相官邸や陸相官邸を占拠していてはいけない。世間にいたずらに不安をもたらすだけだから、彼らを速やかに現在の場所から撤去させなければならん」
「それが先決問題だま」
橋本も同感の肯きを見せた。
「それなら部隊を厳戒司令官の隷下に入れて、警備地区を現在のままとして、それぞれ原隊に帰隊させる・・・これはどうだろう?」
満井がそう提案した。
一同は、それに賛成した。
「それでは村中を連れて来るから・・・」
満井はそそくさと出て行った。
間もなく満井に連れられて、借り着の軍服姿の村中がやって来た。軍服は短く、窮屈そうで首のホックもかかっていない。
満井と亀川は、別席で村中を応対した。
村中の色白な顔には、疲労の色が見えた。
「目的は達したか」
亀川が聞くと、
「達しました」
村中は短く答えた。
「それでは早く引揚げればいいじゃないか
すると村中は広い額をあげて、キッパリと拒絶した。
「まだ事態がどうなるかも知れないのに、いま引揚げるわけには行きません」
「いや、そうじゃない。君らが引揚げさえすれば、事態は自然に収拾出来るんだ。われわれはいまその工作をやりつつある・・・見通しもほぼついてるんだ」
「しかし部隊を引揚げるということは、重大な事ですから、ほかの人達と相談した上でないと、何とも言えません。それに西田さんともよく相談しなくては・・・」
「西田の方は、わたしが引き受ける」亀川はおっかぶせて言った。「だから、若い将校たちの方、君が引き受けて、早速引揚げるようにしてくれ」
「引揚げた方がいいね」と満井がそばから取りなすように言った。「その方が、あとの工作がやり易い・・・とにかく、御上の思召しもよくないそうだから」
御上の思召しがよくない ── と聞かされて、村中はハッと打たれたような顔つきになり、しばらく考え込んでいたが、
「それでは、こうして頂けませんか・・・蹶起部隊を小藤部隊として、戒厳司令陥の隷下に入れ、現位置を守備するように取計って下さい・・・その上で撤退を考慮します」
「いや、それよりも小藤大佐の指揮によって、歩一に部隊を一ト先ず結集して、その上で改めて戒厳司令官の隷下に入った方が、何かとやり易い。そして現状を蹶起部隊の警備区域ということにすれば、君ら歩一あにあっても、維新が実現するまではそこで監視が出来るわけだから、とにかく引揚げが先決問題だ・・・話がそうと決まれば、オレはこれから戒厳司令部へ行って、そのように意見具申をする」
満井がそう言うと、村中はまた考え込んだが、すぐ顔を上げて、
「それではそうお願いします。わたくしはこれから帰って、引揚げを説得します」
そうキッパリと答えた。
「それじゃ、一緒に出よう」
満井は村中をうながして、帝国ホテルを出た。
もう夜が開けかかっていた。空はいつの間にか晴れわたって、下弦の月が浅い光を白一色の地面に投げかけていた。寒気は殊の外にきびしかった。
2023/01/18
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