~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (3-01)
亀川は、朝の五時頃帝国ホテルを引揚げると、一たん自宅へ帰って、電話で山本大将と久原房之助に帝国ホテルでの模様を報告した後に、自動車を飛ばして中野の北一輝宅に西田税をおとずれた。──八時頃であった。
西田は、事件が起こるとすぐ、身の安全を図るために一時巣鴨の木村病院に入院中の岩田冨美夫の病室に隠れていたが、午後三時頃、北宅が比較的安全なのを確かめてから、そちらへ移ったのだった。
北の室は、岩田の司令で数名の若い者が護衛にあたっていた。── 岩田は、右翼団体の大化会主宰者で、やまと新聞社長である。
亀川は、階下の応接室で西田と会った。
奥では、北一輝がしているらしい「南無妙法蓮華経」の読経の声がしていた。何やら一心不乱の声である。
亀川は、夜明け方帝国ホテルの一室で行われた会議の模様を、西田に伝えた。村中を呼んで部隊引揚げ問題を討議し、大体引揚げに方針が決まったことを話すと、西田は突然太い口髭をふるわして激昂した。
引揚げに方針が決まったって・・・そりゃいかん。それでは全くブチ壊しだ・・・一体、それは誰の案ですか、石原ですか、満井ですか?!」
最初に引揚げの口火を切ったのは、亀川であった。それがどうしてブチ壊しなのか、と亀川は西田の思いがけない激昂に面喰った。
── そうか、まだ引揚げてはいかんのか。
ぼんやりそう思ったが、村中に「西田の方は引き受ける」と言った手前、正直に告白するのも間が悪くて出来なかった。
「いや、それは帝国ホテルでの全部の者の意見だ」
亀川は、そうお茶をにごした。
「村中は承諾したんですか」
「大体、承諾したようだった・・・」
「そりゃ、いかん。全くブチ壊しだ!」
西田はもう一度呻くように言って、じっと空間を見つめた。
亀川は間の悪さをコマ化すためにも、話題を変える必要を感じて、鵜沢博士が西園寺公を訪問して、熊谷執事に会って来た話を伝えた。
すると西田はいくぶん気分を和ませた様子で、
「そりゃ、大成功でした・・・とにかく、われわれとしては、事がもう起こってしまったのですから、かれらの企図するところを外部から援けてやらなければなりません。北さんも、そういうお気持ちです・・・まあ、よろしくお願いしますよ」
亀川はそれをしおに、北の家を辞去した。
亀川を送り出すと、ちょうど北の読経がすんだところだったので、西田は北の居間へ入って行った。
北は小柄な身体を炬燵に入れて、じっと眼をつぶっていた。何か考え事をしている時の北の癖である。
「いま、亀川がやって来たんですが・・・」
「亀川?」
北は身体の割合いに大ぶりな顔をあげて、西田を見た。
北は、亀川の名をたびたに西田から聞かされているが、まだ一度も会ったことがない。西田の話によると、統計的な経済学に明るい相当の権威者ということだが、果たしてそうなのか、どうか、疑問の節もないではなかった。だが、陸海軍の首脳部の人達と交際が深いらしく、また久原房之助を通じ政界にも顔が広いらしいことだけは、分かっていた。相沢公判には、鵜沢博士を弁護人に頼み込んだりして努力していたので、北はその労を多としていたのである。
2023/01/21
Next