~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (3-02)
西田は、亀川がもたらした帝国ホテルの会合の話をして、
「村中を呼んで、部隊を引揚げることに、大体決めた、と言うんですが、わつぃあの考えでは、まだ引揚げてはいかんと思うんですが・・・どうでしょうか?」
「まだ引揚げてはいかないね」北は白濁した眼をゆっくりとまたたかせて、静かな口調で言った。「時局収拾の目鼻がついていないのだから、まだ引揚げる時期ではありません・・・それに青年将校らは、ゆうべ軍事参議官に会って、柳川中将を内閣首班とか陸軍大臣とかに持ち出したようにも聞いたが、この切迫した時期に、何も台湾から柳川を持ち出すということは、考えようによっては。軍事参議官一同に対する不信任の意志を明らかに表示したことにもなります・・・だから、真崎一本槍でいいでじゃないか。あれこれと余分な手を考える必要は断じてない。青年将校は一致して真崎に時局収拾を一任する。参議官もまた」これを認める・・・そうなれば上下一致とおいことで、事がスムーズに運ぶ・・・わたしは、いま読経している最中に霊告を受けたのだが、それは『人無し、勇将真崎あり、国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ』というのだった」
「そうですか。それでは、さっそくそれを栗原らに電話して伝えましょう」
西田は席を起った。
「栗原君が電話に出たら、わたしも話すことがある」と北が追っかけて言った。「どうも、今度の事件は、事前工作がまるで出来ていない。事前に軍の中堅層や首脳部の一部に連絡が取れていれば、事はスムーズに運べるのだが、それが全然出来ていないから、事の当たっていろいろまごつきが起こる・・・わたしはそれが心配で、昨夜は一睡も出来なかった。今朝もずっとそれを考えていた・・・栗原君か村中君に、おyくそのことを話したい」
西田は、電話口に立った。
首相官邸の栗原は、すぐ電話へ出た。
「栗原です」
もう二晩も睡眠を取っていない筈なのに、栗原の声は元気にひびいた。
「みんなどうしている? 元気かね・・・食糧はどうしている?」
「みんな元気です。士気は挙がっていますよ・・・食糧は連隊から運んでもらってますから、一向に心配ありません」
「食糧を連隊から・・・何だ、それじゃ、まるで官軍のようなものじゃないか」
「そうです。昨日の夕方から戦時警備令が布かれて、小藤大佐の指揮下に入って、地区隊として警備を命ぜらているわけですから、官軍も官軍・・・官軍中の尊王義軍です・・・一度見に来ませんか」
栗原は呑気そうなこと言う。
西田は苦笑して、
「今朝の新聞に、君らが一斉に蜂起して岡田首相以下五名を血祭りにあげ、内閣は総辞職をし戒厳令が布かれたことが出ているが・・・見たか」
「いや、見ません・・・内閣は総辞職しましたか・・・そうですか」
栗原らは多分自分達の行動とそれに続く維新招来に気を奪われていて、新聞などに気持を振り向ける余裕もないのだろう。
西田の胸には、若い栗原らをいとおしむ気持がふくらんだ。
「なかなかそういう気持の余裕がないかも知れんが、新聞をよく読んだり、お互いに情報を交換したりして、将校間の連絡を緊密にして置く方がいいね」
「そうします」
栗原は出来の良い中学生のような素直な答え方をした。
背後に北が立っていたので、西田は受話器を北に手渡した。
2023/01/21
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