「北です・・・やあ、暫く・・・とうとうやりましたね」北はふだんとちっとも変わらない調子で話した。「ところで、昨日、君らが台湾の柳川を総理とか陸軍大臣とかに希望しておるということを軍事参議官の方々に申したように聞いたが、東京と台湾ではまったく話が違いすぎるではないか。何事も、第一善を求めるということは、こういう場合に考えるべきではありません。真崎でいいではないですか・・・真崎大将に時局を収拾してもらうことに、先ず君ら青年将校の全部の意見を一致させなさい。そうして君らの意見一致として、軍事参議官の方もまた参議官全部の意見一致として真崎大将を推薦することにすれば、つまり、陸軍上下一致ということになる。君らは、軍事参議官の意見一致と同時に真崎大将に時局収拾を一任して、一切の要求は致さないことにしなさい。そしてくれぐれも大権私議にならないように。軍事参議官にお願いするようにしなさい・・・わたしの言ったことは分かりましたね」
「ハイ、分かりました。みんなとよく相談します」
栗原は、ここでもまた出来の良い中学生のような素直な返事をした。
「それでは、相談の結果を、のちほど知らせて下さい」
北は受話器を西田に返して、さっさと自室へ引籠った。
西田は電話口に代わって、
「西田だが・・・部隊は、どうなっているのか。戒厳令が出て、戒厳司令官の隷下に入ったので、部隊を引揚げるというような話を聞いたが・・・？」
「そんなことはありません。われわれは、ここで頑張っています。村中サンから、そんな話が持ち出されましたが、われわれは一蹴しました」
栗原の口調は、やや興奮を帯て聞こえた。
「村中君はどこに居るか」
「陸相官邸の方に居ると思います」
「磯部は？」
「今朝方から、こちらへ移りました・・・ああ、いま見えましたから、代わります」
磯部が電話に出た。
「引揚げる・・・という話ですか、断然引揚げませんよ！」磯部の声は噛みつくようにひびいた。「村中が帝国ホテルから帰って来てその話を持ち出しましたが、断乎反対しました。いま事が成らないのに引揚げたら、何かも水泡に帰してしまいます。それに奸智に長けた軍中央部の連中に丸め込まれるにきまっています・・・断じて退きませんよ。わたし一人になっても退きません・・・もし軍部が弾圧するような態度に出たら、策動の中心人物を斬り、戒厳司令部を占領します！」
西田は肯いて、
「ぼくもいま引揚げるべきではないと思う・・・さきほど亀川がそんなことを言って来たから、叱りつけて追い返したよ・・・しかし、仲間同士の意見が割れてはいかんから、つねに結束を固めて、意見一致で進まなければいかん・・・北さんも、その点を心配して居られる。柳川なんてことを言わないで、真崎なら真崎一本槍で進んだ方がいい・・・いまし方、和尚に霊告があったから、それを告げる・・・いいかね・・・『人無し、勇将真崎あり、国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ』・・・！」
西田らは、北がここ二、三年蟄居して読経三昧に日を送っているので、陰では北を「和尚」と呼んでいたのだ。
「御告げに『国家正義軍』と出たんですか」磯部の声がおどりあがった。「そうですか。不思議ですね・・・わたし共は、昨日以来、蹶起部隊を誰いうとなく『尊王義軍』と呼んでいたんです。完全な一致です・・・さっそく皆に伝えて、結束を図ります！」
電話を切った。──
村中が香田大尉と連れ立って、首相官邸へやって来た。磯部は村中の姿を見ると、夜明け方の喧嘩別れを忘れて、
「村中サン」とおどりあがらんばかりの調子で話しかけた。「さきほど、西田さんから電話で、和尚の霊告をきいたんさす・・・『人無し、勇将真崎あり、国家西軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ』・・・どうですか、われわれが昨日以来、尊王義軍と呼んでいたのとピッタリ一致するじゃないですか」
村中は落着いて、色白な顔に微笑をかけのぼらせた。
「いや、おれの所にも、いまその電話があったもんだから、それでやって来たんだ」
村中はそう答えてから、一同を見まわして、
「どうだろう、和尚の霊告通り、この際は真崎一任で進むのが、一番いいんじゃないかと思うんだが・・・どうだろう？」
「賛成だ。それで進もう！」
磯部は村中の手を、かたく握りしめた。
ちょうど野中大尉も来合せていて、相談はさっそく真崎大将に一任 ── ということに一決し、各参議官の集合を求めることになった。同時に、疲労している部隊に急速を与えるために、警備兵をのぞいて、部隊を一時国会議事堂附近に結集することに決めた。
村中と香田大尉が、蹶起部隊を代表して戒厳司令部に交渉に赴いた。
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| 2023/01/23 |
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