~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (4-01)
この日の首相官邸は、外部からの激励の訪問客や電話の応対がひっきりないで蹶起部隊の将校らは休息もとれないほどだった。
民間の右翼団体の幹部とか、軍部内の派閥闘争で待命になった陸海軍の予備役将官などが電話で激励したり、青年団体や日蓮宗の団体などが官邸前にやって来て、喇叭や太鼓を打ち鳴らして「万歳」を唱えたりいた。午前中、陸軍官邸をのぞいて、永田町の台上一帯の警戒をゆるやかにし、自由に出入りを許したので、物見高い見物人までが警戒線に近寄って来て、随所で思わない騒ぎを生じたのである。
若くて元気者の栗原中尉が、それらの見物人に対して、さっそく民衆工作をはじめた。
彼は溜池附近の警備配置を巡視したとき、見物の群衆を見出すと、すぐずかずかと近寄って、アジ演説を試みた。
「諸君、わたしは蹶起部隊の栗原中尉であります。諸君は、われわれの今回の行動を、どうお思いになりますか。われわれは、軍内の派閥闘争のために起ったのではありません。またいたずらに事を好んで起ったのでもありません。わが国の現状を見るに忍びず、止むなく起ったのであります・・・満州事変以来、わが国は実に前途多難な道を歩んで居ります。それにもかかわたず、当局はこの非常時局に処するに措置の徹底を欠き、内治外交とも萎靡いびして振るわず、政党は党利に堕して国家の危急をかえりみず、財閥はまた私慾汲々ととして国民の窮状は少しもかえりみません。軍部もまた腐敗堕落して、派閥闘争に浮身をやつし、統帥干犯の大罪者をのさばらせて居るのであります。このような状態では、国際情勢の緊迫に照らして、国防がいちじるしく充実を欠くのは当然で、皇国前途うたた憂慮に堪えざるものがあります・・・ひるがえって農山漁村の状態はどうか、というと、満州事変以来の冷水害、不作等で、いまや窮乏のドン底にあえいでおります。国防の第一線に立つべき兵士の姉や妹は身売りをして、一家の窮乏を助けて居る状態であります。また都会における中小商工業者の疲弊窮乏も同様であります・・・第一線に立つべき兵士に、そのような後顧の憂いがあって、どうして強い軍隊が作れましょう・・・?!”!」
「── そうだ、その通りだ!」
群衆の間から声が飛んだ。
一瞬、群衆の間には同感のざわめきが起こった。
栗原は自信を得て、一段と語調を強めた。
「かくの如きは、元老、重臣、官僚、政党、財閥等、いわゆる特権階級が相倚り、相扶けて、私利私欲をほしいままにし、国政をみだり、国威を失墜させるためでありまして、われわれは真に一君万民たるべき皇国本然の姿を顕現せんがために、特権階級打倒に起ち上がったのであります・・・諸君、わが国の軍隊は、天皇陛下の軍隊であり、同時に国民の軍隊であります。特権階級のための軍隊では決してありません。天皇の軍隊即国民の軍隊・・・これがわが国の軍隊の本然の姿であります! いまわが国はソ連、中国、さらに英、米と一触即発の危機に直面しています。然るに元老、重臣、官僚、軍閥、財閥、政党等が腐敗堕落している今日、このまま戦争に突入すれば国を破局に導くことは、火を見るよりも明らかであります」
群衆の間から同感の呟きと拍手とが、散発的に起こった。
2023/01/23
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