~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (4-02)
「諸君、わたし共は軍人であります。軍人たる以上は国防の第一線に立って、笑って死にたいのであります・・・それには何よりも後顧の憂いが取り除かれなければなりません。わが軍隊構成の一大支柱である農民及び中小商工業者の疲弊を是正し、社会保証制度を確立し、その上に強度の国防国家を建設、以って百年の計を樹てなければなりません。それにはわれわれの希望する昭和維新を実現するよりほかはないのであります。われわれ蹶起部隊は、そのための挺身隊であります・・・尊皇義軍であります・・・国家正義軍であります! 国民大衆の諸君におかれては、どうぞわれわれ正義軍の意のあるところをまれて、絶大な御協力を希望いたします・・・終りッ!」
拍手がまた散発的に起こった。
「── 分かった、しっかりやれ!」
そういう声も飛んだ。
だが、大部分の群衆は眼前に起こった異常な事件に気を呑まれていて、まだどちらに味方していいのか分らない、といった風だった。それに日本人の頭の中には、軍隊は天皇に属する絶対的なものだという観念が植えつけられているので、軍隊の一部が軍隊を誹謗したり、反対派の上官を殺したりすることには、容易について行けないのである。
だが、一方では国民大衆は神聖なるべき軍隊に対して、少しずつ疑いを持ちはじめていた。
満州事変以来、軍部の独断専行と政治干渉の態度が露骨になり、対外的に一触即発の危機を招いている。いまにも戦争が起こりそうである。だが、日本はそのような好戦的な強がりを見せて、中国を勝手に分断したり、ソ連や英米を向うに廻して戦争が出来るか、どうか・・・何やらそこには無理が隠されているようである。血盟団暗殺事件、五・一五事件、相沢事件、つづいて今度の事件・・・これらの異常事件の頻発は、その隠されている無理が生んだものではなかろうか。軍隊内部には、このほか国民の眼には隠されているが、三月事件とか、十月事件とか、十一月事件とか、いろいろな事件があったらしい・・・するとこれは、何かがどこかで大きく間違っている証拠である。こんど事件を起こした連中は、元老、重臣、政党、財閥とならべて、軍閥の腐敗堕落を衝いている。軍隊内の事情をさらけ出して誹謗するということは、かつてなかったことだ。して見ると、今度の事件は、さきごろ以来頻発している事件の総決算かも知れない・・・日本の軍隊は、彼らが指摘するように、ほんとうに特権階級のための軍隊化しているのだろうか。もしそうだとしたら、革命運動が起こるのは、当然である! だが、果たしてこの革命は成功するであろうか。万一、革命に失敗したら、この連中はどうなるだろう・・・国じゅうの間違っている事柄の訂正運動としての革命の捨石になるだろうか・・・それともこれらの連中は鎮圧され、反逆罪として処刑された後に反動勢力が勢いを盛り返し、日本は戦争へ突入するだろうか?
雪の上にたたずんで、栗原中尉のアジ演説に耳を傾けていた群衆の無表情な顔や眼つきは、そういう複雑な思いに満たされているようだった。群衆は、栗原の演説が終わっても、散ろうともしなければ、動こうともしなかった。汚れた雪の上にたたずんだまま、占拠部隊の状況をじっと見ている・・・もっと何かが知りたいのだ、本当のことは何であるかが!
2023/01/24
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