~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (4-03)
群衆に対するアジ演説でいくぶん気をよくした栗原中尉は、ふと内幸町にある特権階級の社交場 ── 華族会館を襲撃することを思いついた。華族会館には、毎日正午、華族たちが食事に集まっていることを、栗原は前々から調査して知っていたのだ。
ちょうど正午を少し過ぎた時間であった。── 華族会館の古風だが豪華な食堂には、二十人ばかりの華族たちが、フォークを動かしたり、食後のコーヒーをすすったり、タバコをふかしたりしていた。みな隣り同士や向きあった者と、熱心に話し込んでいる。昨日の払暁、突如として起こった叛乱事件について、それぞれ情報を交換し合っていたのである。
そこへ突如、カーキー服の兵隊がドヤドヤと侵入して来たので、人々は話をやめて入口の方を振り向いた。軍刀に拳銃を吊った年若い将校を先頭に、頤紐をかけて着剣した銃を持った兵隊が十数名無言で入って来た。岡田首相その他を血祭りにあげた連中の一味だろう・・・人々の顔から一斉に血の気が失せた。
栗原中尉は食堂の中程まで進むと、立ち停まって、ぐるりと見廻した。どれもこれも祖先の領地からのあがりや、世襲せしゅうの華族の特権に安住して、暖衣飽をしている顔である。それに豪華な調度品がかもし出している一種特別な雰囲気・・・栗原の胸には、ムラムラと憎悪がこみ上げた。
「みんな一ヵ所へ集まれ!」
栗原は頤で食堂の一角を示し、両手で追いやるようにした。
青ざめた人達は力なく起ち上って、みな命ぜられた通りにした。人々が空けた卓上では、置いたままのタバコが勝手に煙を立てていた。
栗原は、一塊りになった無気力な老人や壮年者を、どうしてくれようかと、ちょっと考えるような様子で黙ってじっと見まもっていたが、やがて、
「一人ずつ爵位と名前を言え!」と命じた。
青ざめた連中は、端の方から一人ずつ爵位と姓名を名乗った。世間によく知られている名前もあれば、全然そんな華族が居たのかと思われるほど少しも知られていない名前もあった。
栗原は手帳に一々書きとめて、
「次・・・」とうながす。
「侯爵細川護立・・・」
髭をはやした色白な初老の男が名乗った。
一瞬、栗原は眉をあげて、細川侯をみつめた。硬い表情がいくぶんほぐれかけた。
「あなたは熊本の細川侯爵ですね・・・自分は佐賀の出身で、栗原といいます・・・自分の祖先は細川氏の家来でした」
「そうですか」
細川侯爵の顔には急に生気と威厳とが蘇った。
「それは他生の縁だが・・・」細川は栗原を見据えるようにして言った。「君らは、軽挙妄動しちゃいかんね」
「あァ・・・」
栗原は上長に対する態度をとりかけたが、あわてて自分を取戻した。
2023/01/25
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