~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (4-04)
「決して軽挙妄動ではない。ぜひとも昭和維新を招来したいという信念に基づいてやったことです。あとで説明する・・・次!」
「予備役海軍大将・・・男爵・・・安保清種・・・」
髭を生やした小柄な老人が名乗った。
栗原はチラッと相手を一瞥しただけで、もはや態度を少しも変えなかった。
全部の者の爵位と名前を書き取ると、栗原は一同を見渡して、改めて口を開いた。
「われわれは、あなた方にまでいたずらに危害を加えようとする者ではないから、安心して、われわれのいうことを、よく聞いてもらいたい」
人々の顔には、ホッと安堵の色が浮かんだ。
「満洲事変以来、国際情勢が非常に緊迫していることは、あなた方も御存じでしょう。満洲における出先軍部は、一触即発の危機にのぞんでいる・・・だが、このまま日本が戦争へ突入したらどうなるか。日本が亡びることは火を見るよりも明らかだ・・・天皇陛下をお扶けすべき元老重臣、官僚どもは政党や財閥と結託して腐敗堕落、私利私欲をほしいままにして、満洲事変以来のどん底に喘いでいる農民や中小商工業者など見向きもしない。軍隊を構成している兵の多くは、農民と中小商工業者の子弟である。国民生活を安定させず、兵に後顧の憂いがあって、何で強い軍隊が出来るか・・・このままでは日本は支離滅裂、外国の重圧の下に屈服しなければならぬ。憂国の士が、黙ってそれを見ていられるか・・・あなた方はともかくにも皇室の藩屏だ、これからみんな宮中へ参内しなさい。そして、われわれのやったことが憂国の至情に出た立派な行為であることを陛下に申し上げていただきたい。さもないと、日本は亡びる・・・必ず亡びます!」
すると、この時ひとりの老人 ── 男爵深尾隆太郎と名乗った男が、静かに口を開いた。
「われわれは、たとえ華族だからといって、勝手にいつでも参内できて、拝謁したり、意見など申し上げることが出来るような、そんな簡単なものではありません。拝謁には、それぞれの手続きがあって、華族だからとでそう簡単に拝謁出来るものではありません」
親が子を諭すような言い方だった。
栗原はちょっと首をひねって、
「そうか・・・そんなにむずかいいものとは知らなかった」
あてがはずれたしょうな顔つきになった。
傲然と構えているが、根は世間知らずの純情な青年将校だ、との印象を人々に与えた。もっともそれだから何をやり出すか分らない危険もある。
「君たちがこんなことをすると・・・」深尾老人はじゅんじゅんと説いた。「それが列国にどんなに響くかということを、君たちは考えたことがありますか。こんな騒擾を起こしたら、日本の信用が世界から失墜するとは思いませんか」
「ふむ、或はそうかも知れん」
栗原は口に含むようないい方で肯いたが、すぐ元の傲岸な姿勢に戻って、
「多少の信用失墜は、致し方がない。革命にはつきものだ・・・とにかく、われわれは維新政府の実現を見るまでは、断じて鉾を納めない。あなた方も、昭和維新の実現に協力して下さい・・・外に何か質問はないですか」
すると一人が手を挙げて、
「あなた方は、内閣首班に誰を希望しますか」と聞いた。
栗原はちょと考えてから、
「誰を択ぶかは、御上の御意志によるものだから、われわれは大権私議はしない・・・ただわれわれの希望としては、この事態を真崎大将あたりに収拾してもらいたい、と考えている・・・ほかに、質問は?」
「ありません」と一人が答えた。
誰も、もはや一言も発しようとはしなかった。一刻も早く剣つき鉄砲の包囲から解放されたかった。
「では、一人ずつ帰って下さい」栗原が言った。「一緒に出ると、兵が興奮しているので、何をするか分らんから・・・」
── やれやれ・・・助かった!
人々は急に生気を取戻し、一人ずつ適当な間をおいて会館を出た。
2023/01/25
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