~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十章  人無し、勇将真崎あり、
国家正義軍のため号令し、正義軍速やかに一任せよ
第十章 (5-02)
野中大尉が蹶起部隊を代表して発言した。
「われわれも事態の収拾を、真崎将軍に御願いいたします。その他の軍事参議官は、真崎将軍を中心として、事態を収拾して下さるよう御願いいたします」
誠心誠意そのものであるが、いかにもかけ引きのない、ぶっきら棒な申入れだった。
「うむ」と真崎は肯いたが、「君らがそう言ってくれることは、まことに嬉しいが・・・しかいまは、君らが連隊長の言うことをきかねば、何の処理も出来ん」
暗に撤退をほのめかした言い方であった。
青年将校らは、勝手の違った思いを呑み込んで、押し黙っていた。
すると阿部大将がそばから取りなすように言った。
「昨夜も言った通り、われわれ参議官は一同力を合わせて協同すべきことを申し合わせている。だから、真崎大将がもしその衝に当たることになったならば、われわれはこれを支持するようにしようし、またほかに適当な方法があったならば、これに協力することを惜しむものではないのだ」
「阿部閣下の言われる通りだ」
西大将がそばから言い添えた。
「それでは真崎閣下に事態収拾を一任するということを、他の参議官一同へもおはかりになって、御賛同いただけるよ御取りなしをお願いします」
野中が言った。
「諸君の意のあるところは、伝えよう」
阿部が応じた。
「ついては軍事参議官御一同が御賛成の上は、われわれの考えと参議官御一同のお考えとが一致したということを、天聴に達せられるよう御とりなしを御願いいたします」
「それは・・・」と阿部が幅広な上体を動かして、「そういう事柄は、手続き上にも考慮せなかればならぬ点があるから、即答は出来ない・・・研究してみなければならん」
何か問答の一つ一つがズレいる。ピントが合わない感じで、歯痒いことおびただしい! だが蹶起将校らはそれ以上政治的な掛け引きの策略もなく、口舌も持ち合わせていなかった。ただ真正直に、軍事参議官らの好意的な発言をじっと待っているだけだった。
「われわれ軍事参議官は、御上の御諮詢があってはじめて動くもので、そのほかには何の職権もないんだ」真崎が諭すように押しつけるような、口調で言った。「ただ軍の長老として事態を坐視するに忍びないので、いまは道徳的に動いているだけだ・・・しかしこの非常事態の収拾には出来るだけ努力しよう。だから、君らがわたしに収拾を任すというなら、無条件で任せてもらいたい・・・しかし時局収拾は、維新部隊が、すみやかに御統率の下に復帰行動することだ。それ以外に手段方法はない・・・戒厳令は取りも直さず奉勅命令だ。もしこれに叛けば、錦旗反抗することになる。万一、そのような場合が生じたなら、自分は老いたりと言えども陣頭に立って、お前たちを討つぞ・・・大局を達観し、軍長老の言をきいて、考え直せ。赤穂四十七士は義士なりといえども、四十七人が全部同じ金鉄の考えであったかどうかは、不明だ。今回出動した部隊の兵隊も、同様だ。蹶起後、日数も経ち、疲労しておるから、思わない色々なことが起こるかも知れない。一刻も早く引取る方が良策だ・・・そうして、とにかくわしに一任しろ、わしが何とかするから・・・」
会議は、思わない方向にねじくれてしまった。これでは、何のために真崎大将に来てもらったのか、全然意味をなさない、ばかりでなく、事は逆になってしまった。こんな筈じゃなかった・・・真崎は青年将校との関係を疑われたくないために芝居をしているのだろうか、それとも本音だろうか?。」
青年将校たちは返答に窮してしまま、誰も一言も発しなかった。
それを見て、阿部が口を開いた。
「それでは、君らの意志はよく分かったから、他の参議官にも図って、後刻返事をすることにしよう」
三大将は、それをしおに席を起った。
会議はまたウヤムヤの裡に終わったのだ。
「あれでいいのか、あれで?」
磯部はやきもきしたが、もはや階段を元へ戻すことは不可能だった。阿部、西両大将が「出来るだけ君らの意志に沿うように努力する」と言ったその言質に僅かでも希望をつないで、よりよい返事を待つよりほかなかった。
夕方になって、蹶起部隊は小藤大佐の指揮命令で、それぞれ宿舎が割り当てられた。二十六日の払暁に蹶起以来、不眠不休の将兵に休息を与えるためで、山口大尉の斡旋によるものであった。
野中部隊は鉄道大臣官邸、鈴木部隊は文部大臣官邸、清原部隊は大蔵大臣官邸、中橋部隊は首相官邸、田中部隊は農林大臣官邸、丹生部隊は溜池の山荘ホテル、安藤大尉は料亭幸楽・・・そして支隊本部は鉄道大臣官邸に位置することになった。
その頃になって、牧野の率いる民間同志五名と下士官兵二名とは、自動車で予定の如く午前五時に湯河原に到着し、牧野の滞在している伊藤屋の貸別荘に機関銃を撃ち込み、河野大尉が先頭になって邸内に侵入し、抵抗する護衛巡査一名を射殺したが、同時に河野大尉も巡査の銃に撃たれ、重傷を負って倒れた。民間同志と下士官兵とは屋内を隈なく探したが、牧野の姿を発見出来ないまま、屋内のどこかに隠れているものと判断し、火をつけて貸別荘を焼き払った・・・だがその時は、牧野はすでに女中の機転で裏山に逃れ、山伝いに附近の農家に身をひそめていたのだった。
一同は、重傷を負った河野大尉を自動車に乗せて熱海の衛戍えいじゅ病院分室に運んだが、そこでみな憲兵に捕縛され、河野一人が重傷のまま入院している、ということだった。
2023/01/28
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