~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (1-01)
夜が明けた。
朝っぱらから、あまり芳しくない風評が、また蹶起部隊に伝わって来た。
── 清浦奎吾伯爵が二十六日参内しようとしたが、湯浅内府、一木枢相らに阻止されて参内出来なかった。
── 昨夜半、寺内、植田、林三大将が、香椎戒厳司令官を訊ねた結果、軍首脳部は蹶起部隊を弾圧することに意見が決定した。
清浦の参内は、磯部がかねてから懇意に出入りしていた実業家の森伝との間で、事件が起こったらすぐ清浦を参内させて、真崎大将を内閣首班に推薦させるようと作っておいた筋書きであった。
森は政界や軍部の上層部に顔の広い人で、磯部らの青年将校の同情者である。どうやら周囲の状況は、蹶起部隊が一夜休息を与えられて熟睡している間に、形勢逆転した模様である。少なくとも、それが感じられた。
首相官邸の一室で、磯部が歩一から運ばれて来た朝食を摂っていっると、事件勃発後行動を共にしている山本又が、一人の憲兵を連れて入って来た。── 山本は、朝早くから憲兵司令部へ出かけたり、参謀本部に杉山参謀次長を訪ねたりして、意見具申に奔走していたのである。憲兵少佐は、神谷と名乗った。
「どうもお互いの意志がよく疎通していないもんだから、何かとやりにくくて困る」神谷は直截ちょくせつ な口の利き方で、磯部に向かって話した。「一つ、君の意見を戒厳司令官に直截話したらどうだろう・・・香椎中将は、君らにかなり同情的な人だから・・・その方が、事態の解決が早いだろう」
そばから山本もしきるにそれを奨めた。
磯部は朝から二、三の悪情報を耳にしていたので、
「では、行きましょう」とすぐその気になった。「少佐殿、それでは、戒厳司令官との面会を斡旋して下さいますか」
「斡旋しよう」
二人は自動車で出かけた。
市中の雑沓を縫って九段の戒厳司令部に赴くと、着剣した銃を持った歩哨が各所に配置されていて、何やら物々しい警戒ぶりだった。何のためこの物々しい警戒? 磯部の胸は一ぺんに敵愾心てきがいしんこわばった。
── よし、こんな警戒ぶりでは、こちらも非常手段をよらねければならんかも知れない。まかり間違えば、司令官と刺し違える腹で事に当たろう!
神谷憲兵少佐の斡旋で、副官の一人に取次ぎを頼んだ。
だが副官は、
「司令官閣下は、いま会議中でですから・・・」と言って、なかなか取次ごうとしなかった。
一時間以上も待たされた。
その間、神谷少佐は部屋を出たり入ったりしていたが、やがてまた戻って来ると、何やら磯部の腰の辺りに眼をよめ、
「君の軍刀とピストルを預かろう」
と言い出した。
「何のためですか」
磯部が聞き返すと、神谷は、
「まあ、いいから預け給え」
その顔には、オレはお前が片倉少佐を襲ったのを知ってるんだ、と言わんばかりの意味あり気な微笑が浮かんでいた。それに有無を言わさない語調でもあった。── 気違いに刃物は禁物だ!
「預けてもいいですが・・・」磯部は神谷の顔を疑り深く見つめて、「このまま検束されるんじゃないでしょうね?」
「誓って・・・そんなことはせん」
神谷は糞真面目な顔に、誠実をあらわしていた。── 危険物さえ取り上げればそれでいいんだ。
磯部は軍刀と拳銃を腰から外して、神谷少佐に渡した。
2023/01/30
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