~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (1-02)
神谷少佐は「危険物:を持って部屋を出て行ったが、しばらくすると「危険物」を抱えたまま戻って来て、残念そうに告げた。
「司令官は、いま陸軍大臣と面会中だから、面会は出来んそうだ」
一時間以上も待たせた挙句の返答が、それか ── 磯部の顔には、憤懣の色が濃くあらわれた。
「それでは、陸軍大臣同席で、面会させて頂けませんか」
「そいつは駄目だろう」神谷少佐は、いまは投げ出した形で、取り合わなかった。「何やら混み入った会議があるらしいから・・・」
混み入った会議 ── といっても、それは蹶起部隊に対する処置方法にきまっている。それについて蹶起部隊の首脳部の一人であるオレが、わざわざ司令部まで出張って来ているのに、その意見も徴さないとは何事か!
するとそこへ戒厳参謀の石原大佐が入って来た。石原は、磯部が来ていることは前から知っていたような様子で、馴れ馴れしく傍らに腰を下した。
「君らは、奉勅命令が下ったら、どうするか」
おどし文句なのか、それとも本当に奉勅命令が下るのか・・・磯部は、その何れとも解しかねたが、あいまいな微笑をうかべて、
「はァ、いいですね」と答えた。
「いいですね、では、分らん・・・きくか、きかんかだ?」
石原の言葉には、押しつけるような響きがあった。
なぜ石原は、そんなことを言うのか。
「それは、問題ではないではありませんか・・・奉勅命令とあれば、何事にもあれ、きこのきかないもないでしょう」
「よしッ、それじゃ、きくんだな」
石原は念を押した。
変だ ── と磯部は漠然と感じた ── 何かが、どっかで食い違っている?
だが、磯部はその疑問に長く立ち停まってはいられなかった。蹶起部隊が落ち込んだ何やら悪い状態 ── それが彼の精神状態をひどくせっかちにしていた。
「とにかく蹶起部隊を現位置にとどめて置いてくれるように願います・・・司令官閣下に、そう意見具申を願います」
磯部は藁をも掴む気持で、そう早口調に頼み込んだ。
「うん、うん・・・」
石原大佐は曖昧に、というよりは人が相手の前からいい加減に切り上げたい時に無責任にする肯きを残して、足早に部屋を出て行った。
すると入れ代わりに、満井中佐が入って来た。
磯部は、起ったいま去った石原大佐の言動が腑に落ちなかったので、満井の姿を見ると、いきなり喰ってかかるような調子で言った。
「中佐殿、あなた方は、わたし共を退かすことばかり奔走しておられるようですが、それは間違いではありませんか。われわれがあの永田町の台上に厳として護りを固めて居ればこそ、機関説信奉者輩が頭を擡げ得ないのです・・・われわれが台上を一歩でも引けば反対勢力がどっとばかり押し寄せるのではないですか・・・中佐殿、お願いです・・・何とかして蹶起部隊を現位置にとどめるように努力して下さい・・・われわれが退けば、もう維新もヘチマもありません!」
最後の言葉は、腸からしぼり出すような悲痛な叫び声になっていた。事実磯部は、それで叶えられるものなら泣き喚きたいし、満井の足許に身を投げ出しもしたいほどの気持だった。
満井は腕組みして、考え込んだ。ホトホト困った、といった表情が、その髭の濃い顔の中に隠されていた。
だが、満井はじきに自分を困惑の中から引抜いた。
「もう一度、司令官に意見具申してみよう」
満井中佐は出て行った。
磯部は、もはや司令部には用事にない身体であった。完全に無視されたのだ。もはやここを出て行くよりほかに道はなかった。
だが、磯部は出ようとはしなかった。れじれした気持を堪え忍んで、何かを期待し、じっと待った。少しでも前途に光明を見出したかったのだ。
2023/01/31
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