~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (2-03)
会議は、いまや重大な瀬戸際に立った。奉勅命令を実施すべきか、否か。・・・下附された命令を実行するとなれば、正午または午後一時を期して、叛乱部隊に対して攻撃に出なければならない。だが、その奉勅命令は、小藤大佐に内示しただけで、戒厳司令官は情勢を顧慮して未だ握りつぶしている、という。
香椎はじっと考え込んだ。一分、二分、三分・・・香椎中将は黙然と考え込んでいる。右か、左か・・・事があまりにはっきりしているので、誰も一言も挟む余地がなかった。やるか、やらないか、もはや残された道は、戒厳司令官の決意一つであった。
だが、その香椎は、じっと考え込んでいる。鉄ぶちの眼鏡をかけた角ばった顔は、何やら苦痛にゆがんで、いまにも泣き出しそうに見える。香椎はじっと感情の爆発を押し殺して、考え込んでいる。
控えの席にいた戒厳参謀の石原大佐と満井中佐は、その香椎の姿を見るに忍びなかった。二人共、司令官には具申すべき意見は出しつくしてしまった。この期に及んでは、もはや司令官一人の裁量に任せるよりほかなかった。
石原が先ず席を起った。そっと廊下に出ると、神谷憲兵少佐が待っていた。磯部がさきほどから意見具申に司令部へ来ているという。
── よし、磯部に会ってみよう!
石原は、そう思いつくと、つかつかと磯部の居る部屋へ入った。
塩部は、五時に奉勅令が出ていることを、未だ知らなかった。そこで石原は、命令が出たらどうするかと、かまをかけて訊ねてみた。すると磯部は、それは問題ではない、と言った。それを確かめて、石原は会議室へ引き返したのだった。
石原と入れ替りに、満井中佐が磯部の部屋に入って行った。が、満井もすぐに会議室へ引き返して来た。
石原と満井が控えの席についたのと、香椎司令官が苦痛にみちた沈黙思考から自分をようやく引抜いて両眼を開いたのは、ほとんど同時であった。
香椎は重々しい口調で、きっぱりと言った。
「わたしの決心は変更いたします・・・討伐を断行いたします!」
それを聞き終わるや否や、石原と満井は再び会議室を飛び出した。
── 磯部に、この決定を知らさなければならない!
石原が先に、磯部の居る部屋へ飛び込んだ。
磯部はまだ坐り込んでいた。腕組みをして、じっと壁の一点を睨んでいたが、ふたたび入って来た石原大佐の姿を見ると、何かの期待に瞳をかがやかした。
「磯部、だめだよ」と石原はいきなり告げた。「軍首脳部に強硬に意見具申してきたが、とうとうきかれない。今朝五時に奉勅命令が出た・・・戒厳司令官は、奉勅命令が出た以上は、実施しない訳には行かん。御上を欺くことは出来んと言って、断乎決心をされた。もいこうなっては、どうすることも出来ない・・・どうだ、君らは引いてくれんか・・・この上は、もう男と男の腹の問題だ・・・引いてくれ!」
そこへ、つづいて満井中佐が入って来た。
満井はいきなり磯部の手を握って、泣き出した。
「磯部、だめだ・・・男らしく、潔く引いてくれ・・・引いてくれ!」
磯部は満井に握られた手の中に、涙がポタポタ落ちるのを見て、ちょっと感動しかけたが、しぐ元の卒然たる顔つきに戻って、
「どうぢても引けといわれるのですか」と腹立たし気に言った。「わたしは同志部隊の指揮官ではありませんから、わたしが引けと命令するわけには行きませんし、また引けと言っても引きはしますまい。しかし、そう言われるならば、わたしはわたしにお力で出来るだけ善処しましょう・・・但し、磯部個人としては、絶対に引きません・・・林大将の如きが現存して策動している以上、これを倒さずに引き退がるようなことがあっては、蹶起の趣旨にももとります・・・一人になっても、わたしはやります・・・絶対に、わたしは引きません!」
最後の言葉の調子は、破れかぶれの怒号になっていた。それと一緒にこらえていた悲憤の涙があふれ出た。
「林大将の問題は、あそかれ早かれ解決されるんだ」
石原と満井は、両方から駄々っ子を慰めるように口裏を合わせて言った。
「だから、この際は無条件で引いてくれ・・・磯部、男と男の腹で行こう・・・男らしく、黙って引いてくれ、磯部・・・!」
満井の涙が、石原にも感染していた。
三人は三様の涙を流して、だまって向きあっていた。
だが、磯部がとうとう自分を投げ出した。
「分かりました」
磯部は涙をぬぐって、二時間近く坐り込んでいた椅子から、力なく身を起こした。
2023/02/06
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