~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (3-01)
帰りの自動車には、戸山学校の柴有時大尉が同乗した。柴は蹶起部隊の同情者で、事態を有利に導くためにみずから連絡係を買って出、上司との連絡に当たっていたの。である
磯部は、柴大尉とは一言も口を利かなかった。自動車のシートに身を埋めたまま、ぼんやりと窓外に眼をやっていたが、その実何一つ見てはいなかった。石原と満井に寄ってたかっていいくるめられたような気がし、憤りとも悲しみともつかない腑抜けのような状態になっていたのである。
突然、柴大尉が磯部の肩を突ついて、窓外を指さした。その瞬間から磯部は我に返って気づいてのだが、道路上には戦車、部隊、鹿砦ろくさい等の包囲陣がすっかり築かれてあった。
「磯部」と柴大尉は言った。「この様子じゃ、とても頑張ってみたところで駄目だ・・・やはり引いた方がいい」
磯部は何も答えなかった。無言で、烈しい叛意が全身に沸ってくるのを、じっと堪えていた。
陸相官邸に着くと、磯部は同志将校の集まっている部屋を探して、飛び込んだ。── 会議室には、山下少将、鈴木大佐、山口大尉と一緒に、村中、香田、栗原らが集まって、何やら鳩首疑義していた。
「おーい、一体どうするんだ?」磯部はいきなり大声で怒鳴った。「オレは、いま戒厳司令部へ行って来たんだが、石原大佐と満井中佐が、奉勅命令が出るから引け、というんだ・・・しかし、いま引いたら大変なことになるぞ・・・維新もヘチマもない、めちゃくちゃなことになるぞ・・・絶対に引けないぞ!」
磯部の眼底には、いま見て来た戦車群や包囲陣の有様が焼きついていた。
「磯部、そう興奮しても仕方がない・・・まあ、坐れ」
村中が白い額を上げて、制した。
磯部は腰を下ろした。
村中の説明を聞くと、やはり奉勅命令が出るということで、その情報をもたらした山下少将や鈴木大佐らを混えて協議した結果、どうやら撤退することに決定した模様であった。
「イレは反対だ!」と磯部は噛みつくような調子で言った。「いま撤退したら、この台上は反対派の勢力に掌握されてしまって、われわれが何のために蹶起したか、まるで無意味になるばかりでなく、もっと悪い事態が生ずる。奴らはわれわれを弾圧して、自分らの野望を遂げるのにやり易い体制に、軍を作り変えてしまうだろう!」
「わたしもそう思います」栗原が言った。「わたしは磯部さんの意見に賛成です」
それで一たん撤退に纏まったのが、足許からぐらついた。
一同は顔を見合わせた。── どうしたもんだろう?
「とにかく撤退を急ぐべきではない」磯部が主張した。「もう一度よく協議しようじゃないか・・・われわれだけでなく協議しようじゃないか」
磯部のその言い方には、山下や鈴木などの異分子を入れて協議するからいけないんだ、という意味が露骨に出ていた。
山下はそれを聞くと、むっつりと押黙ったまま席を起った。つづいて鈴木も、山下に倣って退席した。
山口大尉だけがその場に残った。
香田、栗原、村中、」磯部の四人は、山口大尉をまじえて、改めてもう一度協議した。── そして分かったことは、香田と村中は磯部が戒厳司令部に赴いたあとで、奉勅命令の情報を耳にしたのだった。そこで香田らは第一師団司令部に堀中中将をたずね、奉勅命令が出たかどうかを確かめた。すると堀師団長の答えでは、まだ下達されていない、と言った。
協議は、それをめぐって堂々めぐりした。
「それでは、こうしようじゃないですか」栗原が提案した。「統帥系統を通じて、もう一度御上に御伺い申し上げようじゃないですか・・・奉勅命令が出るとか出ないとかいうが、一向にわけが分からん。御伺い申し上げた上で、われわれの撤退を決しましょう・・・若し、死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しましょう・・・自決する時には、勅使の御差遣ぐらい仰ぐことにでもなれば、先ず仕合せじゃないですか」
誰も一言も発しなかった。事は、どうやら最後のギリギリのところまで来たという思いが、一同の胸をひしひしと噛んだ。それに若い栗原がそれほど透徹とうてつした心境に達していようとは、誰も思いがけなかったのだ。人々は感動した。
だが、磯部だけが、その感動にチラッと疑いをはさんだ。
── 何か違うぞ?
彼はそう思った。そしてその疑問を口に出そうとした。
するとその時、突然、山口大尉が大声をあげて泣き出した。
「栗原、貴様はえらいッ!」
山口は起ちあがりざま、つかつかと栗原のそばに寄って、肩を抱いた。栗原も起って山口を抱いた。二人は涙に濡れた頬と頬をくっつけて、声をあげて泣いた。
香田も泣いた。村中も泣いた。磯部ももらい泣きした。
泣きながら、磯部は、もう一度栗原の意見を反芻はんすうしてみた。そして統帥系統 ── 小藤、堀、香椎 ── を通じて、天皇に蹶起の真精神を奏上し、御伺いをする・・・という方針は、この際当を得たものだという考えに到達した。
「よかろう」と磯部は涙を押しぬぐって言った。「それでは、それで進もう!」
山口が出て行って、別室に退っていた山下少将と鈴木大佐を呼んで来た。
山口が一同の前で、改めて栗原の意見を披露すると、山下も鈴木も共に涙を流し、
「有難う・・・有難う!」
感激を口にしながら、栗原、香田、村中、磯部の手を、一人ずつ固く握りしめた。
2023/02/07
Next