~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (3-02)
そこへ堀第一師団長と小藤大佐とがせかせかした足取りでやって来た。── 堀中将は、奉勅命令が午前八時に実施というのが延期されたので、香田、村中の訪問に対して、命令は下達されていないとあいまいに答えたのだが、その後また十時に実施するということが確定したので、おどろいてその旨を告げに駈けつけたのだった。
だが、堀中将と小藤大佐は、多くを語る必要はなかった。彼らもまた栗原の意見を聞いて感動の涙を流した。
「奉勅命令は、近く下る状況であるから、君らは退いてくれ」
二人の直属長官は、そう勧告しただけだった。
その間にあって、磯部はやはり感動に対する疑問について、ひとり考えつづけた。
── どうもおかしい・・・違うぞ?
磯部は考え込んだ。そしてひょいと気づいたのだった。
── どうも、山下、鈴木、山口らは、われわれが自決する覚悟をもったことに対して感涙したらしいぞ?
そこで磯部は、山口に向って言った。
「上奏文には何と書くんですか・・・死を賜りたいなどと書いたら、大変ですよ・・・それは違いますよ」
山口は解しかねたような顔で、ちょっと考え込んだが、それについては別に何も言わなかった。
上奏文は、村中の手で出来上がった。それには、「われわれは陛下の御命令に服従いたします」と書いてあった。
── どうも違うな・・・何だか違うぞ?
磯部は、ひとり首をひねった。
同志将校が、ぼつぼつ集まって来た。みんな勅命の噂を聞いて興奮し、疑心暗鬼の面持ちである。
── 一体、どうんはんだ・・・奉勅命令は出たのか、出ないのか?
村中が、一同に今朝からの経過を話した。そして付け加えて言った。
「われわれは自決しなけらばならないかも知れない・・・その時は、潔く自決しよう」
「オレはいやだ!」
磯部が吐き捨てるように言った。
磯部は香田、村中、栗原を各個に別な小部屋へ連れ込んで、熱心に説いた。
「一体、君らはほんとうに自決する気なのか・・・そんなバカな話はないじゃないか。オレが栗原の意見に賛成したのは、自決するということではない。統帥系統を通じて、陛下に、われわれの真精神を申し上げるべく御伺いする、ということだ・・・山下少将も、鈴木大佐も、山口大尉も、みんな勘違いをしているんだ。われわれがいまここで自決病に取りつかれてしまっては、事がブチ壊しになる。われわれの精神を信頼してついて来た兵たちは、どうなるんだ・・・考え直してくれ!」
すると誰もが一応磯部の意見の正当性を認めた。
だが、何かがどこかで大きく間違ってしまった感じだった。その混乱につけ込むかのように山下、鈴木、小藤の各官がこもごも退去を説得するのである。蹶起将校らの足並みは、ようやく乱れた。撤退を肯定する者、自決を主張する者・・・結束はドカドカと音をたてて崩れようとしている。もはや磯部一人の力では防ぎようがない。
── 何もかも不純幕僚どもの仕業だ・・・奴らに、すっかり丸められてしまったのだ!
磯部は誰も居なくなった小部屋にひとり残って、天地も裂けようと号泣した。
2023/02/08
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