~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (4-01)
北一輝は毎朝の習慣に従って、十時頃まで法華経の読誦にすごした。
彼は、前日来西田が集めた諸情報から、蹶起部隊は戒厳部隊に編入され、陸軍大臣はその蹶起の趣旨を容認し、また軍事参議官一同は蹶起将校らの目的貫徹に向って邁進することを申し合わせたといい、軍内外を通じて情勢は蹶起部隊に有利に展開しつつあると判断していたので、読誦は自然蹶起部隊の目的貫徹に向って集中された。
すると精神を集中しての読誦中の例で、いつもの霊告が頭脳に閃いた。
「── 神仏集い、賞讃々々。おおい、嬉しさの余り涙がこみあげか。義軍、勝って兜の緒を締めよ!」
北は、三たびそれを口で誦した。片方が白濁した眼から、涙が流れ出た。
読経が終わると、北は茶の間へ入って、西田に霊告を伝えた。
「そうですか・・・それでは、きっと勝利を納めますね」
西田も眼をうるませた。
だが、それから二時間ほどして首相官邸からかかってきた電話報告は、霊告とはまったく逆の情報であった。つまり蹶起将校らは山下少将、鈴木大佐らの勧告によって、ついに責を負って自決するの止むなきに至り、万事休す、と言うのであった。── 電話をかけてきたのは、栗原であった。
北は情勢の急変に驚いて、自分で電話口に出た。
「栗原君ですか。いま報告を西田君から聞いたが、自決するなんて、そんな弱気なことではいけません。昨日の軍事参議官の回答を辛抱強く待つべきです・・・自決は最後の手段です。まだ最後の時ではないでしょう・・・残された問題がまだあるわけだから、決して早まってはいけません。みんなによろしくそう言って下さい」
「伝えます」
栗原は短く言って電話を切った。
すると午後になって、陸相官邸の村中から電話がかかって来た。
「奉勅命令が出て、われわれを討伐すると言うことですが、その真偽は不明です」
村中は、簡単にそう報告した。
この時も北は自分で電話口に出た。
奉勅命令は、多分脅しでしょう・・・なぜなら、いやしくも戒厳部隊に編入された部隊に対して、討伐命令を発するというような不条理はない筈です。多分、脅しの手だから、君らはそれに乗せられないで、一たん蹶起した以上は、その目的貫徹のためにあくまで上部工作をやりなさい・・・なお、自決云々の話も聞いたが、自決は最後の手段です・・・君らが死ぬようなことがあったら、われわれとて晏如あんじょとして生きては居れんのだから、その条理をよく辨えて、あくまで目的貫徹に進みなさい」
北は諄々と説いた。
「わかりました。皆に、よく伝えます」
村中はそう言って電話禹を切った。何やら村中は忙しそうだった。
実際、村中はあ忙しかったのである。一たん決まったかに見えた自決論は、まず磯部の反対にあってぐらつき、北と西田の激励で完全にくつがえった。それに料亭の幸楽を占拠している安藤大尉が自決論を聞いて、非常に憤慨し、蹶起部隊の首脳部の意気地なさを非難しているという話が伝わって、自決論はとぢめを刺された形になった。
「いずれにしろ、同志将校の意見一致をみなければならない。みんなに六章官邸に集まって貰おう」
村中の意見で、すぐ伝令が飛んだ。だが、同志将校の集まりは悪かった。安藤と坂井は強硬論を主張し、そんな集まりに行く必要はない。と伝令を追い返した。そのため村中は、自分で安藤部隊との連絡に走らなければならなかった。
安藤部隊の占拠している幸楽の応接間には、安藤をはじめ十数名の将校が集まっていた。その中に、いつもぐり込んで来たのか、歩三の新井中尉がまじっていて皆に取囲まれ、何やら質問の矢をあびていた。
「残念ながら、奉勅命令が出たんです・・・安藤さん、お帰りになるんでしょう」
新井が強張った表情で、いくらか慰撫的いぶてきに安藤に向かって言った。どうやら新井は、連隊から撤退勧告に派遣されて来た様子である。
安藤は、しかし聞いているのかいないのか、むっつりと押黙ったまま答えなかった。
「何が残念だ!」香田大尉がそばからいきなり新井に浴びせた。「奉勅命令がどうしたというんだ。そんなものはニセモノだ・・・あまり下らんことを言うな!」
新井は高飛車にやられて、返答に窮した形でぼんやり突っ立っていた。
「幕僚が悪いんです・・・幕僚ファッショをやってしまわなけりゃダメだ!」
紺の背広を着込んだ渋川が怒号した。── 渋川は前日から安藤部隊の中に紛れ込んでいたのだった
2023/02/10
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