~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (5-01)
新井中尉は待たせてあった自動車で今井町に前進している連隊本部へ取って返すと、よろめくような足取りで連隊長に近づき、報告した。
「出動部隊が帰るというのは、嘘であります」
この日歩三の留守部隊では、奉勅命令が出たので、蹶起部隊は撤退して帰る、という噂が立っていた。だがまた一方、坂井や安藤が強引に引揚げを拒んでいるという情報も入ったので、この二人ともっとも親交の厚い新井が選ばれて、偵察かたがた説得に派遣されたのだった。
だが、安藤部隊の占拠している幸楽の応接間に一歩足を踏み入れるや否や、新井は怒号に取り囲まれ、立ち往生してしまった。坂井を説得するどころではなかった。そして新井が真先に気づいたことは、肝心要の奉勅命令は、蹶起部隊にはまだ下達されていない ── ということだった。それがために蹶起将校らは奉勅命令を持ち出しても、ただの脅しとしか思っていなかった。そして彼らは、別に彼らの都合のよい大詔の渙発を期待しているのだった。
── 陸軍首脳部は、一体何を考えているのか・・・命令や指示に少しも一貫性がないではないか・・・これでは蹶起部隊に引揚げを説得しても無理だ。
新井は、今は当局の曖昧なやり方に対して、腹の底から憤りを掻き立てずにはいられなかった。
陸軍首脳部は、最初は師団命令で蹶起部隊を守備につけた。間もなく守備交替を名目に引揚げを勧めるかと思えば、たちまち軍事参議官と蹶起将校らの会同が行われた。陸軍大臣告示が出たかと思えば、戒厳令が布かれ、蹶起部隊には現位置のまま警備を命じながら、他方、留守部隊にその外辺を包囲させた。こうして彼我対立をさせておいて、撤退の奉勅命令に至っては、必要のない留守部隊には下達しても、肝心の蹶起部隊には何故か伝えようとしない。こんなことが繰り返されている限り、事態の収拾など思いも寄らない。その結果はどうなるか・・・つまりは皇軍相撃ちが落ちだ。
── 一体こんなカラクリを誰がしているのか?
その時、新井の頭に浮かんだのは渋川が叫んだ「幕僚ファッショ」という言葉であった。そうだ、あの幕僚の中の不逞の徒どもが命令のカラクリをして、わざわざ皇軍相撃をさせようとしているのだ。渋川は、幕僚をれという。しかし幕僚の全部が全部、しうした不正をやる筈はない。要は、不正を企らむ幕僚に、これ以上の不正をあせぬことだ。攻撃命令の下達も、もはや時間の問題だ。
── どうしたら、この不逞の輩の計画による皇軍相撃の惨を避けることが出来るだろう?
新井は考えつづけた。
軍隊は、命令に服従する。命令とあれば、いかなる命令にも服従する。事件勃発以来、六軍大臣告示をはじめ種々の命令に、ずいぶんおかしいと思いながらも、命令とあれば致し方ないと服従して来た。それが叛軍を増長させていることも確かである。だが、軍隊の服従にも限度がある。いつまでもこんな出鱈目な命令に服従しては居れぬ。それを実際に行為に現わして彼らの反省をうながしてやらねばならぬ。
── よし靖国神社へ行こう!
新井はふいに思い立ち、決心した。
新井の中隊は、福吉町の赤坂電話局に位置している。安藤や歩一の丹生部隊の居る溜池とは目と鼻の距離である。
「敵ではないのだから衝突は避けよ」「弾薬は装填そうてんするな」等々の注意を達しられているが、しかし警戒配備であり、いわば敵対配備の姿勢をとっているのである。それだけにその戦列を無断で離れることは軍規上許されないことだった。だが許されるとか許されないとか、そんなことを詮議立てる心の余裕を、新井は失っていた。それに「敵ではない」のに敵対態勢を保持していてば、やがて皇軍相撃が始まるだろう。その無意味さに耐え難かったのだ。
新井ははじめその決心を、大隊長や連隊長にはかることを考えた。だが次の瞬間、はかっても無駄だ、と悟った。たとえ彼らがそれを望んだとしても、事件勃発以来ししゅう及び腰で自己の安全を求め、何事にあれ「命令とあれば致し方ない」とする人達である。事後承諾でゆくよりはかない。ただこの場合、連隊長は、蹶起部隊に糧食薪炭を送った人であり、師団長は「この際世の中の悪いことはみんな直してしまえ」というはらで、第一師団命令を出したのだから、皇軍相撃を避けるためにする自分の行動は、絶対に上長官の意図に叛くものではない、と新井はそう判断を下した。
2023/02/13
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