~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (5-02)
新井は伝令を出して、隣の霊南坂附近に位置している小林中尉に来てもらった。── 小林は留守部隊が蹶起部隊の外側を取囲んで、守備配置につこことになった際、連隊長に向かって、「どうかこればっかりは待って下さい」と泣かんばかりに訴えた男である。連隊長はその時「命令とあれば致し方ない」と取り合わなかったのだ。
新井は小林中尉の姿を見ると、理由も何も説明ぬきでいきなり言った。
「靖国神社へ行きましょうや」
「靖国神社?」小林中尉はちょっとの間考え込んでいたが、やがて頭を振って言った。「いやオレには、新井のように全般的判断は出来ない」
二人は、それ以上何も言わなかった。小林中尉が賛成しないならば、一人で所信断行するより他はない。
新井は、小林中尉の見ている前で部隊を集めて、出発した。
新井の行動には、一種のデモの意味があった。二十分ほど歩いて青山墓地に到着すると、一たん休憩を命じ、曹長を大隊本部に伝令に出して報告させた。
「── 第十中隊は、中隊長以下全員、靖国神社へ参拝に参ります」
大隊長は、この奇妙な戦列離脱の報告に面喰った。これを是認するか、どうか・・・大隊長は一存で決めかねたので、連隊長にその旨を報告に及んだ。
すると連隊長が言った。
「いいから、やらせて置け」
新井が伝令からその復命をうけたのは、神宮外苑を行軍中のことだった。
だが、この新井の行動は、中央部に疑心暗鬼を生じさせた。靖国神社の附近には、臨時参謀本部、陸軍省、戒厳司令部などがある。
── 包囲部隊の一中隊が守地を撤して、九段方面に向った!
そういう情報が飛んだ。中隊長は、皇道派の青年将校としてブラック・リストにのっている新井中尉である。蹶起部隊に呼応して臨時参謀本部、陸軍省、戒厳司令部等の襲撃も考えられた。中央の幕僚は色めき立ち、直ちに上京していた高崎連隊の機関銃隊その他を防衛配置につけた。
そんなことは少しも知らない新井中隊は、信濃町から塩町、市ケ谷見附を通り、靖国神社の境内へ入った。
暮れかかる雪の社頭には、人影がなく、しーんと鎮まり返っていた。新井中尉は部下を中隊縦隊に整列させ、喇叭手に「国の鎮め」の吹奏を命じた。
「── 捧げエ・・・銃ッ!」
軍刀を引抜いて脾腹ひばらに押し当て、腹の底から声をしぼった。
にぶく光る着剣の白い列がならび、亮々たる喇叭の音がその間を縫って流れた。
雪がまたチラチラ降り出した。靖国神社の社頭にも黄昏が迫って来た。兵をどこかに休憩させて、携帯口糧の食事をさせなければならない。そこで恰好な休憩場所を探すために、取り敢えず叉銃をさせた。
するとそこへ大隊副官の江上中尉が後を追って、駈けつけて来た。
「秩父宮殿下の御領事ごりょうじをお伝えします」江上はしゃちこ張った口調で言った。「今回の事件は、不純分子と一緒にやったのがよろしくない。責任者は、その責任を負わなければならない・・・!」
不純分子とは、誰を指すのか、さきに免官になった村中、。磯部か・・・それとも渋川、西田、北の類をいうのか。
── なァんだ!
新井は反撥する心の中で思った。
秩父宮は、任地の広前から今日上京して来たのだった。宮は長く歩三にいたことがあり、国家改革運動には理解があると思われていたので、その上京には両様の期待がかけられた。つまり蹶起部隊は、自分達に都合のいいような事態収拾について殿下の助言と行動に期待をかけたし、包囲部隊はその反対の引揚げ勧告に期待をもったのである。
蹶起部隊での秩父宮期待の担い手は、坂井中尉であった。── 坂井は、新井と一緒に北京から帰って間もなく殿下に拝謁した際、殿下に向かって国家革新のためには直接行動の必要をしきりに力説したのだった。
するとその時、殿下はこう言われた。
「坂井、そんな場合には、先ずやる前にわたしに報告するんだよ」
その御言葉を坂井は、殿下は自分達に都合よく動いてくれるものと解釈していたのだった。
坂井はそれを安藤に伝え、部下の急進的な下士官にも話した。下士官達は歓喜してその御言葉を信じた。もっとも事件の際は、秩父宮は任地の弘前に居られたので、事前にそれを通報すべくもなかったが・・・。
2023/02/14
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