~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (5-03)
だが、同じ頃、坂井らと一緒に秩父宮に拝謁した新井は、殿下の国家革新論に対する態度については、別な理解をもっていた。
それは新井が中国からの土産話として、国家というものは非常に大きなもので、一朝一夕に変わるものではないということがわかった、と申し上げたのに対して、秩父宮は、
「そうか、それが分りゃ、大したものだ」
そう声を弾ませて仰せられたのだった。
新井はその御言葉から、殿下は必ずしも国家革新運動に加担かたんされるものではない、との結論を導き出していたのである。
だから新井は、秩父宮上京の報を聞いた時、何とか事態を収拾するには、殿下の令旨を承るのが良策だ、と信じた。もういい加減にして止めなけりゃいけない ── ぐらいの御言葉でもと、期待したのだ。そのため拝謁の任を自分にあてて貰いたい、と進んで連隊長に懇願した。
だが、連隊長は森田大尉をそれにあてた。森田は、秩父宮が歩三の中隊長であった時の中隊附である、というのが選任の理由であった。
だが、森田大尉が承ってきた秩父宮の令旨は、期待したほどのものではなかった。それは単に起こった事件に対する批評にすぎなかった。「責任者は責任を追わなければならない」と言われたところで、殿下は宮様ではあるが、統帥的に見れば第八師団の一大隊長である。その一大隊長が、とかくの批評をされたとて、「第一師団ハ先ニ行動セル部隊ヨ併セ指揮シ」と下達された第一師団命令を覆せるものではない。
しかしそれにしても、何のために秩父宮の令旨を伝えに大隊副官を靖国神社まで差し向けてよこしたのだろう・・・それを伝えて、新井中隊を呼び戻そうというのか?
── オレが靖国神社へ参拝に来た理由は、別にあるんだ!
新井は、頑なに心を閉ざした。そして江上中尉に対してしっけなく返答した。
「わかった・・・しかし、オレの決心には変わりはない」
新井は、江上注意を帰した。
すると入れ代わりに、参謀肩章を吊った一人の大佐が、トラックで乗りつけた。昨年末に参謀本部に栄転したばかりの前連隊長の井出大佐であった。
新井は部下の休憩所にガレージを見つけて、そこへ移らせたばかりのところだったので、井出大佐をガレージの事務室らしい一室へ案内した。
新井は突っ立ったままで、井出大佐に喰ってかかった。
「大佐殿、あなたも幕僚のお一人です。幕僚ファッショということが言われていますが、実際出鱈目がひどすぎます・・・いくら何でも皇軍相撃ができますか」
「幕僚ファッショなどと、そんなことはありません」井出大佐は諭すような口調で、穏やかに言った。「犠牲があまりにも多すぎる・・・守備については交替もさせましょう・・・」
そして大佐は、これからとる処置について長々と説明し、なお皇軍相撃を避けるために説得の手段をつくす旨を述べた。
新井は「犠牲」という言葉を聞いて、頭の中が一変した。だから、あとの説明は殆ど耳に入らなかった。犠牲なら犠牲で、それでいい・・・どうやら幕僚は、命令を操ってまで、皇軍相撃をさせようとするのではない。なるほど、そういえば今までの処置も納得できなくなない。
それが鎮圧には何ら力のないものではあったが・・・しかし、今となってとかくの批評をしても始まらない。問題は、一刻も早く蹶起将校らに軍当局の方針を伝え、説得して引揚げさせることだ。
「わかりました」新井は態度を一変させて言った。「中隊は元の位置に帰して、わたしは説得に参ります」
「とく分ってくれた・・・じゃ、頼むよ」
井出大佐は、握手の手をさしのべた。
新井は中隊を中村少尉に托して元の配置につくように命じ、井出大佐と一緒に戒厳司令部差廻しのトラックで、連隊本部へ引揚げた。
2023/02/14
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