~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (6-02)
山王ホテル、幸楽、首相官邸からは、「万歳」の叫喚と軍歌の合唱が怒涛のようにひっきりなしに起こっている。赤坂方面では街頭演説がはじまり、物見高い群衆に向かって蹶起の趣旨、維新革命の要を絶叫する将校たちの姿が、随所に見受けられた。群衆はおびえた顔をならべて、黙って聞いているだけだった。
その中を種々な風評が飛んだ。
── 市中各所に暴動が起こったらしい!
── 菅波、大岸大尉らが上京して来た!
── 歩三の残留部隊が義軍に投じた!
蹶起部隊の士気はいよいよ昂まった。
ちょうどその頃、中野の北一輝宅では、北と西田と薩摩の三人が階下の奥の部屋で、状況変化に対する善後策について協議していた。三人は、上部工作に対しては打つべき手段はすべて打ったので、あとは海軍側にもう少し働きかけて、海軍側の意向として「真崎大将一任」に持って行くよりほか仕方がない、というのが一致した考えだった。
宮中では皇族会議が行われる、という情報も入っていた。
「さきほど、海軍の小笠原長生閣下に、電話で重ねてお願いしたんですが・・・」と西田が言った。「閣下は、よく分かった、といって居られたから、海軍側の工作は小笠原中将と山本英輔大将とで何とか纏めてくれるでしょう・・・伏見軍令部総長官も参内した模様ですから」
「まあ、皇軍同士が撃ち合うというようなことは、万一にもありますまい」
北が言った。
すると、そこへ玄関番の若い者が入って来て、北に告げた。
「憲兵が十人ばかりやって来て、先生に面会したい、と言って居りますが・・・どういたしましょう?」
「十人?」
そりゃ多すぎるじゃないか、といった面持ちで呟くと、北は丈夫な方の瞳をキラリとさせて、西田を見た。
西田は黙って肯き返した。
二人の間では、憲兵は西田をつかまえに来たのだということが暗黙のうちに分かったのだ。
西田の長い顔には、サッと決心の色がうかんだ。
北は西田のその様子を見てとると、ゆっくりと若い者の方を振向いて、
「会おう・・・二階の応接間へ通して下さい」
北は西田の部屋を出て行った。
西田は鞄を引寄せると、その辺に出ていた自分の所持品を、すばやく押し込んだ。
部屋には、薩摩が、おれはどうしたもんだろう、といった顔で立ちつくしていた。
それを見て、西田が言った。
「あなたも行って、様子を見てくれませんか・・・あなたは、大丈夫ですよ」
薩摩は肯いて、部屋を出た。
二階の応接間に急いであがって行くと、私服の憲兵たちが北の前に坐ったりしていたが、その中の一人が北に向って、
「西田さんがお宅にいる筈ですが・・・ちょっと西田さんにお目にかかりたいんですが・・・呼んでいただけませんか」と言った。
北は黙って聞いていたが、相手の言葉が終わるのを待って、
「西田君は居りません」
ゆっくりと言った。
「ほんとに居ませんか}
「居りません」
すると憲兵の主だった者が二人で何やらひそひそ囁きを交していたが、
「ちょっと電話を貸してください」
「どうぞ」
薩摩が憲兵の一人を階下の電話口に案内した。
2023/02/15
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