~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (6-03)
その憲兵が戻って来ると、また主だった憲兵に耳打ちした。
主だった憲兵は肯いて、北に向い、
「それでは、あなた・・・ちょっと憲兵隊へ来て下さい」
おだやかな口調だが、有無を言わせない威圧的な響がかくされていた。
「用があるなら、行きましょう」北は落着いて答えた。「但し、わたしはまだ食事前だから、食事をして行きます」
北は階下へ降りて、食事の支度をさせ、寒さを考慮して着物を余分に着込んだりして、なるべく余計に時間をかけた。
食事がすんでから、便所へ行くふりをして西田の部屋をのぞくと、ガラス窓が半分ほど開いていて、西田の姿はなかった。── 西田は窓から庭へ出て、裏口から出て行ったのであろう。
北は、今朝西田の部屋へ入った時、机の上に時計や蟇口が置いてあったので、何となく蟇口を開けてみると、殆ど空だった。そこで北は自室へ戻って、ありあわせの五十円を持ち出し、西田の蟇口に入れてやった。
北はそれをチラッと思い浮かべ、
── あれだけでも入れておいて良かった!
ひそかにそう思った。
それから北は、憲兵らの待っている玄関へゆっくりと歩いて行った。──
西田は、北宅の裏口から通りへ出ると、すぐ円タクを拾って、新宿へ出た。
だが、どこへ行くというあてはなかった。それに円タク代にも事欠くほどの金しか持ち合わせていない・・・西田はその時ふと、さきほど蟇口を鞄に押し込んだ際、蟇口がふくらんでいたのを思い出したので、取り出して調べると、五十円入っていた。
── 北さんが入れておいてくれたのだ。
西田の顔には、感謝と微笑が一緒にうかんだ。
「君、新宿まで行ってくれ」
西田は、運転手にそう命じた。逃亡を兼ねて、永田町附近の様子を見たかったのだ。── 一体、どんな様子なのか、。ちょっとでも自分の眼で見ておきたかったのである。
だが、円タクは四谷塩町から右へ折れて、神宮外苑の方へ向った。
半蔵門の方は通れないのかね?」
西田が訊ねると、運転手は向うむきのままで、
「通れません」と言った。「今夜あたり撃ち合いがはじまるというので、あの附近の人達は立退きをはじめていますよ」
「そうか」
それほど状態は悪化してしまったのか ── と西田は心の中で呻いた。
青山を廻って新橋へ出たが、やはりどこへ行くというあてはなかった。それに今後どうするという身の処し方についても、何一つ考えがまとまらなかった。
「君、浅草まで行ってくれ」
西田は、また運転手にそう命じた。
円タクは昭和通りへ出た。浅草まで行きつ間に考えを決めるつもりだった。
だが、円タクはあっけないほど早く浅草へついてしまった。考えは何もまとまらなかった。
「浅草は・・・どちらですか」
駒形をはずれたところで、運転手が訊ねた。
「雷門のそばでいい」
西田は出鱈目に答えた。それ以上行先を変更するのは運転手に不審を抱かせる危険がある。
西田は円タクをすてて、ぶらぶら田原町の方へ歩いて行った。
歩きながら、あれやこれやの考えが輻輳ふくそうしたが、そのうちにふと、事件の起こった朝、最初に身を寄せた岩田富美夫の病室が頭にうかんだ。
── そうだ、あそこで何か便宜があるだろう。
西田はsぷ思いつくと、すぐ円タクを拾った。
巣鴨の木村病院には、岩田は居なかった。どこかへ外出中だった。
病室には、見知らぬ若い男が一人留守番のような恰好でいたが、相手は西田を知っているらしく、
「西田先生ですね」と言った。「うちの先生は、いまちょっと外出しています」
西田は相手を信用して ── というよりは事を急いだので、簡単に事情を打ち明けた。
「病院に居っても迷惑をかけるといかんから・・・どこか無いですかね」
すると相手はすぐ、
「わたしの家へお出で下さい」と言った。「わたしの家は牛込喜久井町ですが、いま家内が実家へ帰っていて、誰も居りません。お世話する者もいないわけで、御不自由でもよろしかったら、二、三日うちでおやすみになったらいかがですか」
相手の態度は、誠実そうであった。
「それでは、お願いしますかな」
「御案内します」
西田は、見知らぬ若い男に伴われて、ふたたび円タクで牛込に赴いた。
ごみごみした路地の奥に、その男の家があった。小さな、古ぼけた貸家風の家だった。しかし当分の潜伏には、恰好であった。
玄関に入る時、標札を見ると「佐々木」と書いてあった。
「どうも、家内が居ないものですから・・・」
佐々木はぼそぼそ言いながら炭火をおこし、茶をいれた。それから食物と蒲団の在り場所を教えて、また病院へ引き返して行った。
西田は、当分この家に籠城ろうじょう することに覚悟を決め、カビ臭い畳の匂いを嗅ぎながら、明るい電灯の下で一人ゆっくりと熱い番茶を飲んだ。
2023/02/15
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