~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (7-02)
連隊長はすぐ戻って来た。そして発表された人選は、古参大尉や佐官級の人たちであった。新井は危険視され、敬遠されたのだった。
その頃には、様々な情報が留守部隊に入って来た。
── 蹶起部隊が出撃を企てている!
── 彼らは酒を飲んで狂っている!
── 霊南坂方面が危ない!
新井は急いで、中隊の位置に戻った。デマかも知れぬが、万一に備えて附近の有り合わせの材料で障害物しょうがいぶつを作らせた。」
山王ホテルや幸楽附近の住民は、すでに避難をはじめていた。
障害物つくりを指揮しながら、新井の頭の中にだんだん頭をもたげた考えは、幸楽の歩三の部隊には原隊からの説得が行われることになったが、すぐ眼の前の山王ホテルにいる歩一の丹生部隊には誰が説得するか、ということだった。丹生中尉と新井とは士官学校同期生である。そんな関係もあって、前々日の夜、安藤部隊に連絡に赴いたついでに、丹生部隊にも寄ってみたのだった。
その時、二人は山王ホテルの応接間で会った。
「やあ、どうだい」
「やあ、元気か」
同期生の気安さから、二人はそんな挨拶からはじめた。
新井は部下中隊を指揮して福吉町に来ているが、それは蹶起部隊を敵として来ているのではなく、同じ第一師団長の隷下にある旨を告げ、なお今後も連絡を蜜にする必要がある、と話した。それから新井は冗談を混えて言った。
「貴様らは、ずいぶん贅沢だな。ホテルや料理屋に宿営して・・・」
「まあ、そういうなよ」丹生はおとなしい真面目な顔つきで、少し照れ臭そうに、「地区隊命令で、こうやっているんだかた・・・」
「それは知っている。オレの方は電話局だよ・・・・寒くてやりきれんよ」
「そうか、それは気の毒だな。オレの方は、命令で共産党蜂起に備えているんだが、オレたちがこうして頑張ってりゃ、左翼は何も出来まい」
丹生の最後の言葉は、気負った言い方になった。
── 丹生は、まだあの時の気負った気持ちでいるのだろうか、それとも情勢の急変にあって、憤慨しているのだろうか?
新井はすぐにも飛び出して行きたかったが、状況上、万一不在中の中隊の警備線をどこかの部隊に突破されては、との懸念から、責任上その位置をはなれることが出来なかった。
そこで新井は一計を案じ、前々日丹生部隊に行ったことのある下士官に、手紙を持たせてやることにした。つまり時間と場所を指定して、丹生中尉に来てもらうことにしたのである
丹生中尉からは、応諾の返事が来た。
新井は万一を慮って、指定時間より五分ほど早く、中隊の歩哨の位置に出て行って、待っていた。
空からは、雪がチラチラ舞い落ちていた。
やがて指定の時間になった。暗い街路上をみつめていると、彼方に部隊の行進して来る跫音が聞こえた。そしてそれはだんだん近づいて来た。どうやら丹生は、部隊を連れて来たらしい。
しまった・・・何を仰山な?!
薄暗い街灯の光の中に、行進して来る部隊の姿が認められた。彼我の距離は十五米ほどに迫った。
「丹生部隊、止まれッ!」
新井は叫び声を発した。
部隊は止まった。新井は近づいて行った。
「新井中尉だ・・・丹生は居るか」
声に応じて、丹生が先頭の塊の中から出て来た。
軍当局は君らの犠牲という態度で臨んでいる」新井は熱誠を込めて言った。「いくら頑張っても、引きずって行こうとしても、とうてい駄目だ・・・もう止めろ・・・止めなきゃ、逆賊として討たなけりゃならんのだ」
「そうか、駄目か・・・」丹生は突っ立ったまま少し考え込んでいたが、すぐ反問した。「もうオレたちは逆賊なのか」
「いや、攻撃開始前に帰れば、逆賊じゃない」
「奉勅命令は出たのか」
「出ている」
「そうか・・・出たか」
丹生は溜息をついて、また考え込んだ。
「どうする? 帰るか」
「いや・・・」丹生はかぶりを振った。「同志将校と相談した上で、それは決める」
「オレの用件はそれだけだ」
「分かった・・・有難う」
丹生中尉は、部隊に廻れ右を命じた。そして静かに山王ホテルに引揚げて行った。
2023/02/18
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