~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十一章  写しでない、本物の奉勅令を持ってきた
第十一章 (7-03)
新井は中隊の位置に帰ると、大隊本部にその旨を報告した。説得の効果を期待しながら。
それから間もなくであった。
一台の自動車が、新井の中隊の位置に来て停まった。一人の少佐と一人の大尉が自動車から降りた。少佐は桜井徳太郎であった。
桜井少佐は大尉時代に、戸山学校の戦術教官をしていたが、非常に勇敢な男で、体操は専門の教官裸足であった。営内靴で梁木りょうぼくから跳び下りたり、常識ばなれの冒険をするので、不死身とさえ評されていた。その頃、早大プールで宙返り跳び込みをやったが、軍隊の梁木とちがい、跳躍台には弾力があるので、踏切りを誤り、鼻柱をしたたか打った。鼻の骨が裂け、その一端が皮膚を破って出たが、彼はそれを槌か何かでトントンと叩いて平気でいた、と伝えられていた。
桜井少佐は、新井に、大隊本部へ案内せよ、と言った。
新井は案内した。折よく大隊長は居合わせた。
桜井少佐は大隊長に向かって、鄭重に、
「わたしは第一師団の増加参謀の桜井です。・・・実は、写しではない・・・・・・本物の奉勅命令を持って来ました・・・御覧下さい」
しう言うと、風呂敷包みから証券用紙に書いた奉勅命令を取り出した。新井はそれを一ト眼見た瞬間、本物だと直感した。
「行動部隊の下士官、兵は何も知らないらしい」桜井少佐は言葉を継いだ。「それで、実は今からこれを見せに行こうと思うんですが・・・大隊長殿の御意見はどうですか」
歩三では、実は村上啓作大佐が奉勅命令の写し・・を持って、安藤部隊を説得に赴いたのだが、失敗した。写し・・はニセモノとして拒否されたのである。写し・・そのものも杜撰ずさんなものであったが・・・桜井少佐はそれを知ってやって来たのだった。
「異論ありません・・・むしろ、こちらから希望します」
大隊長は、そう答えた。
そこで新井は、案内役を買って出た。
桜井少佐とは介添えの大尉、それに新井の三人は、桜井の自動車で最初の目標 ── 山王ホテルに向った。
車の中で、新井は桜井少佐の勇猛談を思い出したので、老婆心までに言った。
「少佐殿、行動部隊は気が立って居りますから、あまり無茶をやりますと、お命が危ないです」
すると桜井は振り向きざま、
「何を言うか・・・バカ野郎!」と一喝した。
老婆心は、結果として出過ぎたおせっかいになった。新井は顔を赧らめたが、しかしそれで満足した。
── この人なら大丈夫説得が出来る!
山王ホテル前で自動車を降りると、新井が先ず警備兵に近づいて、申し入れた。
「新井中尉が、写しでないホンモノの奉勅命令を持った方をお連れしたから、将校の誰か来るように伝えてくれ・・・要すれば、丹生中尉が自分で来るように」
警備兵の一人は、ホテルに向って駈け出した。
二人は冷たい街路上に雪をあびて立っていた。いまは電車の往復も途絶え、住民が立退きをしたあとの街はひっそり閑として、夜の深い静寂しじまを感じさせた。その中で、カタリ、コトリ・・・と叛乱軍の歩哨の靴の音だけが、いやにはっきりと耳についた。
間もなく、先ほどの伝令が砂利道を速歩でやって来た。
門の所まで来ると、伝来はいきなり大きな声で叫んだ。
「中隊長命令。その必要なし!」
否定されたのだった。── オレが折角桜井少佐を案内して来たのに! 新井は、無礼とも言いたいその返答に、胸の中が煮えかえる思いであった。
三人の前には、丹生部隊の警備兵たちが剣つき銃を構えたまま、取り巻くようにして見守っていた。
「仕方がない」
桜井少佐は吐き出すように言ってから、一段と声を張り上げて、
「それでは、ここに居る者は、みんな聞け・・・奉勅命令が出ているんだ、早くここを引揚げて兵営へ帰れ、という奉勅命令が出ているんだ・・・これをきかなければ、みんな陛下の御命令に叛く逆賊として、討伐される・・・しかし、攻撃開始前に兵営に帰れば、逆賊ではない・・・いいか、よく聞け!」
少佐はやおら奉勅命令を取り出して、姿勢を正した。
介添えの大尉は、少佐の左に並んだ。その少し左後方に、新井も不動の姿勢を取った。狙い撃ちには、絶好の機会であり、目標であった。
桜井少佐は街灯の薄明りの下で、厳粛に読み上げた。
「占拠部隊ヲシテ速ニソノ守地ヲ撤去セシムルヨウ伝達相成度・・・」
「── 占拠部隊ハ速ニソノ守地ヲ撤去スベシ」
前者には閑院宮参謀総長の花押があり、後者には御名御璽はないが、明らかに勅命の文句であった。
一語々々ゆっくり読みあげる少佐の声は、山王ホテル附近の夜のしじまに、響き渡った。」
2022/02/19
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