~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (1-01)
二十九日、午前四時頃 ──
磯部は宿舎の農林大臣官邸の一室で、毛布をひっかぶって、丸太ン棒のように睡っていた。
四日四晩不休不眠の疲れで、意地にも我慢にも睡気を払うことが出来なかったのである。よこ──
磯部は、前後不覚に睡っていた。
そこを、突然、鈴木少尉に揺り起された。
眼をこすって飛び起きると、あたりが妙にさわついていた。
「何だ・・・どうした?」
鈴木は、疲労で青ざめた顔に、興奮と絶望のまじりあった色を浮かべて告げた。
「どうも奉勅命令が下ったらしいんです。・・・ラジオが盛んにそれを放送しているんですが・・・」
「なに、奉勅命令・・・?」
磯部は鈴木と一緒にラジオのある部屋に赴いた。
だが、生憎あいにくそのラジオが不良で、はっきりと聞き取ることが出来なかった。
「何かの間違いだろう:磯部は言った。「昨夜、宵のうちに近歩四の山下大尉が来て、奉勅命令はまだ出て居らんと言った・・・山下は嘘を言う男じゃない」
山下は、陸相官邸正面を警備している包囲軍の中隊長である。磯部が近歩四に居た頃の同僚で、その誠実一徹の人格には、磯部は敬意を払っていた。その山下は、昨夜磯部を訪ねて来て奉勅命令はまだ出ていないと言い、皇軍同士が撃ち合いをすることは、いかに上官から命令があっても出来ない、とはっきり言ったのである。磯部は山下の言を、その人格と共に固く信じていたのだ。
間もなく、斥候いらしい者が警戒線に出没する ── という報告を磯部は受取ったが、それも高をくくって、しりぞけた。
「われわれを攻撃する筈はなない」
しかし夜明けと共に、いよいよ奉勅命令が下って、攻撃するらしい ── という情報がひんぴんと跳び込んで来た。
それと共に永田町一帯を包囲している包囲軍陣地の各所に、戦車の轟音が聞こえはじめた。下士官、兵の間に緊張が高まったが、同時に動揺の色が濃くなって来た。
磯部は、まさか、と思ったが、やはり不安を覚えたので、一応同志将校に連絡してみようと思い、農林大臣官邸を出た。
首相官邸に赴くと、栗原中尉が会議室の隅で、ひとり考え込んでいた。
近づくと、栗原は憔悴しょうすいした顔をあげて磯部をじっとみつめ、
「奉勅命令が下ったようですね」と言った。「どうしたらいいでしょうね・・・下士官、兵は、一緒に死ぬとは言っているんですが。可哀想でしたね・・・」
栗原は元気なく、もはや進退きわまった、といった顔つきであった。
栗原は言葉をつづけた。
「どうせこんなに十重二十重に包囲されては、戦をしたところで、勝目はないでしょう・・・それだったら、下士官以下を帰隊させたらどうせしょう・・・それに、実を言うと、中橋部隊の兵が逃げて帰ってしまったんです・・・このうえ、他の部隊からも逃走する者が出たら、それこそ革命の恥辱ですからね」
「中橋部隊が逃げたか・・・」
磯部は呟いて、声をのんだ。── 中橋部隊は近歩三から参加出動した部隊で、一昨日来、原隊からしきりに呼びかけを受けていたのだった。それがとうとう逃げ帰ってしまった!
磯部は言葉に詰まったままだった。
磯部はこれまで出動部隊の実力と団結を信じて来た。だが、その一角が崩れたのだ。そのうえ実力部隊の中心人物たる栗原中尉が、状況上、止むなく戦闘を断念するという・・・それでは磯部のような部隊を持たない者が、とかくの強硬意見を主張してみたところで、どうにも致し方がない。
「そかしそれは、同志将校全部の生死にかかわる重大問題だから、君ひとりで事を決めてしまってはいかんだろう」
磯部はそう注意するのが精一杯の努力であった。
栗原は、第一線部隊の意見をまとめるために、出て行った。
磯場は栗原の部屋に残って、ひとり考えつづけたが、どうしても降伏する気にはなれなかった。蹶起将校が、もう一度勇をふるって一戦する決心を持ってくれないかと、そればかり念じつづけた。
2022/02/21
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