~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (1-02)
磯部は苦しくなったので、庭先へ出た。
もうすっかり夜が明けはなれて、数日来はじめて見る青空に朝の太陽がかがやき渡っていた。そのよく晴れた空に海軍の飛行機が飛んでいた。低空飛行でガアーッとやってきた、と思うと、紙片をバラバラ撒布し、キラリと翼を太陽に閃かして、飛び去って行く。
舞い落ちる紙片を、下士官、兵たちが、奪い合って拾っては、急いで立ち読みしている。紙片は兵たちの手から手へ渡り、何事か不安な面持ちで話し合っている。
何だろう? 磯部は、兵隊が持っていた紙片をもらって、読んだ。帰順勧告きじゅんかんこくの宣伝ビラであった。
  下士官兵ノ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
    二月二十九日      戒厳司令部
「もうこれで駄目かな・・・!?」
磯部は思わず呟いたが、不安の気持のまま、一たん首相官邸へ入った。将校の誰かをつかまえて、もう一度勇気を鼓舞したかったのだ。
すると廊下にラジオの声が流れて来た。
磯部は立ち停まって耳を傾けた。
アナウンサーが感情を込めた声で、呼びかけている。
「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。すでに天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして誠心誠意活動して来たのであろうが、すでに天皇陛下の御命令によって、お前達は皆復帰せよ、と仰せられたのである。このうえお前達があくまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。正しいことをしていると信じていたのに、それが間違って居ったならば、徒に今までの行懸かりや義理上からいつまでも反抗的態度を取って天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならない。今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗を止めて軍旗の下に復帰するようにせよ。そうしたなら、今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと国民全体もそれを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰って来い・・・戒厳司令官香椎!」
磯部は首相官邸を飛び出して、自分の宿舎である農林大臣官邸へ向った。
しると官邸の門前には、すでに戦車を先頭に包囲部隊の将兵が前進していた。戦車の上部には、「我ハ攻撃セズ」と書いた旗が立ててあり、その下には、「謹ンデ勅命ニ従イ、武器ヲ捨テテ我方ニ来レ、惑ワズ直グ来レ」と白紙に大書したのが貼ってある。
蹶起部隊は、と見ると、戦意も何もなく、ただ呆然と庭先にかたまっているだけだった。
鈴木少尉の傍らには、彼の中隊長である新井中尉が迎えに来ていた。── 後で判明したのだが、磯部が、首相官邸へ出かけた後へ、歩三の大隊長と新井中尉が常盤、鈴木両少尉と下士官兵に、十二分の同情を表しながら説得したのだから、撃ち合いになる道理がない。
これも後で分かったのだが、陸相官邸附近にいた歩三の清原少尉は、奉勅命令と聞くと、直ちに部隊を集めて帰隊してしまった。
するとそこには歩三の坂井部隊が、すでに集合を終わって整列していた。
近づくと、坂井中尉は憤然とした面持ちで、磯部に向かって言った。
「何も言って下さるな。わたしは、下士官、兵を帰します・・・」
坂井は泣いていた。
彼の傍らには、すでに歩三の大隊長と中尉が迎えに来ていた。坂井は泣きながら、それらの人達と感激的な握手を交している。
── 大廈たいか倒るるや、一本のよく支うる能わず・・・か!
磯部はよろめくような足取りで、溜池の方へ向った。
山王ホテルには、決戦の覚悟のもっとも強い安藤部隊が、昨夜から丹生部隊に合流している筈であった。
2023/02/23
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