~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (2-01)
山王ホテルでは、すでに丹生部隊が説得使によって帰順したあと、安藤部隊だけが残って、頑張っていた。── 安藤部隊は幸楽に二百名、山王ホテルにはほぼ同数の兵が分かれて籠城の覚悟を決めていたのだった。
安藤部隊の上下の結束は固かった。下士官、兵たちはそちらこちらに腰かけ、壁にもたれ、庭先にまであふれ出て、それぞれ軍歌を高唱していた。将校も、下士官も兵もみな連日連夜の不眠と興奮の連続による疲労とで、誰もみな青ざめた顔をしていた。だが、それにもかかわらず、軍歌の高唱はひっきりなしに渦まき起こった。まさに尽きようとする生命を、自分らの革命歌 ──軍歌によって支えているような情景である。
山王ホテルも幸楽も、すでに戦車を先頭にして大部隊によって包囲されていた。ホテルの東方の田村村のあたりには灰色の巨大なアドバルーンが挙がっていて、帰順勧告の文字幕がはっきりと読み取れる。
「── 勅命下る。軍旗に手向かうな ──」
だが、アドバルーンも、飛行機による勧告ビラの撒布も、この「永田町南部」の一郭は受け付けないのである。包囲部隊は、ラウドスピーカーをホテルの門前に移して、「帰営のラッパ」の放送をはじめた。
スピーカーから流れ出す懐かしい吹奏は、惻々として兵士たちの胸に迫り、ある者は涙を流して聞き入るのがが、それでも彼らは動こうとはしない。そして門前の放送が終わるや否や、こんどは対抗的に自分らの革命歌を高唱し始めるのである。
山王ホテルの豪華な応接間には、残った将校たちが集まって椅子にかけたまま、ぼんやりと彼我の喧噪けんそうに聞き入っていた。将校たちは、もはや討議すべきものは討議し尽くして、何も言うことはなくなった。安藤大尉一人だけが、最後までやると頑張っていた。安藤の決意は強固で、とても議論では覆せそうもない・・・それでは、このまま安藤部隊を全滅させ、兵士にまで国賊の汚名をきせるの?
将校たちは腕組みをしたり、頭を抱えたりして、じっと考え込んでいた。誰も喋ろうともしないし、動こうともしない。
磯部も処置なく坐り込んで、兵たちの歌声に聞き入っていたが、次第に胸に固い決意の塊が込み上げて来た。決意の塊は、こみあげ、ふくらみ、熱いものとなってほとばしった。
「おい、安藤・・・」磯部は顔を上げて呼びかけた。「下士官、兵は帰そう!・・・貴様は、これほど立派な部下を持っているんだ。それだけに騎虎の勢い、一戦せずば止まることが出来まいけれども・・・やってみたところで、勝味はない・・・いたずらに、こんな立派な部下を殺傷して、兵にまで国賊の汚名をきせるだけだ・・・兵を殺しちゃならん・・・安藤、下士官、兵は帰そう!」
言っているうちに、磯部の頬には涙が滂沱ぼうだと流れた。
「諸君・・・」
安藤は昂然と顔をあげて言った。彼には、もはや磯部一人は問題ではなかった。今となって足並みが崩れ、寄ってたかって帰順をすすめる同志将校全部が相手だった。
「わたしは今回の蹶起には最後まで不賛成だった。然るについに蹶起したのは、どこまでもやり通すという決心が出来たからだ・・・だのに、この有様は何ですか・・・昭和維新はやらなくともいいのか・・・あなた方は、今となって帰順せよと言われるが、武士として、包囲されて、降伏はない。するならもっと早くすべきだった・・・僕はいま何人も信ずることが出来ない。ぼくは、僕自身の決心を貫徹する!」
安藤の言葉は、なお訥々とつとつとつづいた。
「僕自信は、千載逆賊の汚名を受けても結構だ。ただ可哀想なのは兵隊です・・・彼らを叛徒として帰せますか・・・自決はやさしい・・・しかし、われわれはそんな弱い気持で起ったのではない。殺されても、死んではならんのです・・・みんな討たれて死のうじゃないですか」
「しかし、下士官、兵はいま帰せば逆賊じゃない、と言っているんだから・・・」
誰かが安藤の言葉尻を取って言った。
「そんなことは信用できない・・・それが信用出来るくらいなら、はじめから起つ必要はなかったんだ「」
安藤はそう言うと、ごろりと長椅子に横になった。
「少し疲れているから、休ませてくれ」
そのまま眼を閉じて、じっと動かなかった。
だが、五分ほどすると、安藤はむっくりと起き上がった。睡っていたのではなかった。ずっと考えつづけていたのである。
「戒厳司令部に行って、包囲を解いて貰おう・・・」安藤は決心の色を顔にうかべていた。
「包囲を解いてくれなければ兵は帰せん!」
「それも一つの方法だ ──」
磯部が賛成した。
磯部は戒厳参謀の石原大佐に面会し交渉しようと思い立ち、さっそく九段の戒厳司令部に赴いた。
2023/02/24
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