~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (2-04)
その間にも山王ホテルには説得の人達が入れ代わり立ち代わりやって来て、誰彼の区別なく、手当たり次第下士官、兵らを説得して廻った。
「── 早く帰れという、天皇陛下の御命令が出ているんだ。攻撃開始前に帰れば、叛徒ではないんんだ!」
下士官、兵たちは、一応おとなしく耳を貸すが、しかし誰一人帰ろうとはしなかった。中隊長の命令がなければ、誰一人単独行動に出ようとする者はない。
安藤はその様子を、窓の所に佇んで、じっと見ていた。二分、三分、五分・・・安藤は動かずにじっと見ていたが、そのうちに彼の肩がかすかに動いた。
「いま帰れば叛徒ではない・・・よし、下士官、兵を帰そう!」
安藤はつかつかと玄関先へ出た。
「第六中隊、集まれエ!」
安藤特有の鋭い号令がひびきわたった。
兵たちは玄関先に、すばやく四列の中隊縦隊に並んだ。一人の兵が事件の晩以来熱病で寝込んでいたが、その兵も二人の戦友に支えられて、最後尾に並んだ。
下士官。兵たちは連日の悪天候と寒気のために、みな外套を着込んでいる。だが、いま事件以来はじめてあらわれた太陽の下で見ると、外套を着た兵隊の姿は、いかにも爺むさく、かじかんで見える。たとえ時に利あらず、戦わずして敗軍の兵となったとはうえ、国体の本義に基づいて行動した部隊である。もっと毅然としたところがなけらばならぬ。
「外套を脱げ・・・」
安藤は命じた。
兵たちは列を解き、思いおもいの場所で外套を脱ぎ、きちんと畳んで背嚢につけた。兵たちはそれを泣きながらやった。
再び集合、整列 ──
安藤は前よりは一段と活気と規律を増した部下を見やって、満足気にうなずき、おもむろに訓辞した。
「蹶起以来、みなはこのわたしを中心にして、命令を守り、一糸乱れず、よくやってくれた。お礼をいう・・・われわれは行動を起こして以来、尊王討奸の目標に突き進んだ。しかも時に利あらず、われわれは賊軍の名を蒙らんとしている。だが、われわれの行わんとしたところは、国体の本義に基づいた行動精神であることを、永久に忘れないように・・・!」
落着いて話をしようとするのだが、熱いものが後から後からと胸にこみ上げてくる。安藤の鉄ぶちの眼鏡は涙で曇った。
列の中からも啜り泣きの声が、そちょこちに起こった。
「これで、みなとはお別れだ。みなが入営以来のことを思うと、感慨無量だ・・・よくこの中隊長に仕えてくれた。この規律と団結とをもってすれば天下無敵だ・・・みなは身体を大切にし、満洲へ行って、しっかり御国のために御奉公するんだ・・・最後のお別れに、六中隊の軍歌をうたおう!」
安藤大尉をはじめ下士官、兵たち一同は、泣きながら天にも届けと、第六中隊歌を合唱した。
軍歌は、繰り返し二度歌われた。
二度目の結びの「・・・六中隊」を歌い終わった時、安藤大尉は腰の拳銃を抜き取るが早いか、くるりと向きを宮城の方にかえ、銃口を頭部に押し当てた。それを見て、前列に居た前島上等兵が安藤の右腕に飛びついた。が、飛びついたのと、引金が引かれるのと同時だった。轟然たる響きと共に、安藤威大尉の身体は残雪の上に倒れた。
弾丸は咽喉許から頬骨に抜け、そこから血が噴き出して紅く染めた。
下士官、兵たちは駈け寄って、中隊長の上に折重なった。
「── 中隊長殿!」
「── 中隊長殿!」
ふたたび泣き叫ぶ声が、安藤大尉を包んだ。
安藤は、まだ眼をあけていた。しかし口が利けないので、彼は血に染まったまま地面に指先で何やら書いた。何か書き残したのだろう、と察して、堂込曹長が鞄から通信用紙と鉛筆を取り出して与えると、安藤は力の籠った字で書いた。
「── 天皇陛下ノタメツクシテクレ。皇道維新、天下無敵、未練ハナイ。モウ一発ヤッテクレ」
必死三昧、天下無敵 ── それは安藤中隊の評語であった。
安藤は、赤十字の救急車で陸軍病院に運ばれて手当を受けたが、傷は案外浅く、致命傷をはずれていた。
2023/02/28
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