~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (3-01)
ちょうどその前後に、先任者の故をもって蹶起将校の代表者になっていた野中大尉が、陸相官邸の一室で自殺を遂げた。── 彼の自決は元の連隊長井出大佐の勧告によるもので、そのため「野中は殺された」という噂が立った。
部下を原隊に帰した蹶起将校たちは、陸相官邸に集合した。
その頃には陸相官邸をはじめ永田町台上一帯は、蹶起部隊に代わって鎮圧軍がすっかり占領しあたかも勝ち誇ったような様子でざわめいたいた。憲兵や参謀将校が活気づいて、さかんに飛び廻っている。
蹶起将校らは、四日前陸軍大臣や軍事参議官一同と会見交渉した会議室に集まった。彼らはひそかに軍事参議官らの来訪を期待したが、一向にやって来そうもなかった。陸相官邸内の雰囲気は手の裏を返すように彼らを軽視した。
つい昨日まで、蹶起部隊の一上等兵に対してまで、「貴官」とか「あなた方は」といった卑屈な敬語を使っていた将校連中が、今は平常の階級意識を取り戻して、肩で風を切って闊歩している。廊下で、用事や連絡を頼んでも、ろくな返事をしないのである。
蹶起将校は、今は完全無視の中におかれた。自分で自分の始末をつけるよりほかない。
「── やはり自決しよう!」
誰が言い出したともなく、そういうことになった。将校たちはあり合わせの紙に向って、めいめい遺書をしたためはじめた。
その間にも、顔見知りの将校たちが入れ代わり立ち代わり入って来て、しきりに自決をすすめた。どうやら陸軍省には、自決用の白木綿が用意されてあるような口ぶりだった。
またある者は威丈高に、頭から国賊呼ばわりをした。
「とにかく君らは、勅命に抗したんだから、国賊と言われても致し方ない。早く自決した方がいい・・・自決の機会を与えられたのが、せめてもの軍の温情だと思え!」
参謀肩章をつけた中佐であった。
「何だッ?」磯部が振り向きざま、中佐に喰ってかかった。「われわれは、いつ勅命に反抗したか。勅命は下達されもしなかったではないか・・・下達されもしない命令に、抗するも何もあるか!」
すると中佐の顔にはサッと狼狽の色が浮かんだ。
「ああ、それはしまった・・・下達されなかったのか・・・これはしまったことをしたもんだ・・・!」
中佐は呟いてコソコソと広間を出て行った。
磯部はその後姿を睨みつけていたが、そのうちに持っていたペンを投げ出した。
「自決はやめた! こっちがおとなしくして自決しようとして、遺書まで書いているのに、そのうえ寄ってたかって自決をすすめやがる・・・それが軍の温情だ、と? バカくせえや・・・誰が自決なんかするものか・・・おい、みんな、止めようじゃないか」
蹶起将校たちは、その一言でいずれも自決を取りやめた。
山下少将と岡村寧次少将が一緒に入って来た。
山下が無表情な顔で言った。
「みんな拳銃その他の装具を取りはずせ」
命令口調であった。
将校たちは、装具を取りはずした。
「軍刀だけは携帯を許す」
山下がまた重々しく言った。
それから将校たちは二、三人ずつ広間から連れ出された。
磯部と村中は、一緒に小部屋に監禁された。
「これがオレ達に対する処置か!」
二人は顔を見合わせて、歯をくいしばった。
こんな筈じゃない。少なくとも最後には軍事参議官一同がやって来て、最後的な意見なり、希望なりを述べる機会を与えられるものと、期待していたのだ。だが、その希望は完全に踏みにじられてしまった!
磯部と村中は、今は冷たく眼の前にある分厚い壁に向かって、憎悪と窒息感とを同時に覚えた。
2023/02/28
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