~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (3-02)
山下少将が部屋に入って来た。
山下は軍刀の携帯を許したのに、自刃も刺し違えもせずにしょんぼり坐っている二人を見て、キラリと眼を光らせ、無愛想な顔で聞いた。
「君らの覚悟は、どうだ?」
「天誅を受けます!」
村中が白い額をあげて、昂然と答えた。
山下はそれを聞くと、肯いて、黙って去った。
もはや何もすることのない退屈な時間が、のろくさと経った。
磯部は連日連夜の疲労で、睡気が襲い、どうにも我慢がならなくなった。
「オレは寝るよ」
そう村中に声をかけると、磯部は長椅子の上にごろりと横たわった。そのまま彼は前後不覚に睡り込んでしまった。
それを見て、村中も事務机にもたれて睡った。
大分睡った、と思われる頃、扉が鳴って、憲兵大尉が部下数名を従えて入って来た。顔を見合わせると、磯部と士官学校同期生の岡村大尉であった。
「何だ、貴様・・・オレらを縛りに来たのか」
磯部が言うと、岡村は苦笑して、
「職務上、止むを得ん・・・いやだろうが、縛についてくれ」
軍隊では、犯罪容疑者が現役軍人である場合は捕縛はかけないが、常人に対しては捕縛をかける規則になっている。── 磯部、村中は、すでに免官となっていたので、軍服着用でも常人扱いをしなければならない
憲兵の下士官が二人に捕縛をかけた。
「まさか、こんな目に会おうとは思わなかった・・・まして貴様にこんな縄目の恥をかかせれようとは、思わなかった!」
磯部が言うと、村岡は、
「そうだろうな、そうだろうな」
同情的に肯いたが、しかしその顔はもう職務的憲兵の顔に戻っていた。
二人は、憲兵隊の自動車に押し込められた。
助手台に納まった岡村大尉は、運転手に向って低い声で命じた。
「出発・・・」
自動車は夕闇の中を走り出した。
途中、思い出の青山一丁目あたりで、冬の日がとっぷりと暮れた。自動車は青山一丁目から右に折れた。── 二年前、士官学校生徒のスパイ事件と当時の士官学校中隊長辻政信大尉らの密告によって、クーデター企図の嫌疑で村中と磯部が逮捕され、寒い冬を過ごした、あの代々木練兵場南端の陸軍衛茂刑務所に向って・・・あの時の密告者の片割れである陸軍省軍事課の片倉少佐には、磯部はついに恨みの一弾を撃ち込んだ。だが、手許が狂って、ついに片倉を仆すことが出来なかった・・・辻大尉は、重謹慎三十日の処分を受け、水戸の連隊に遂われたが、辻は水戸で、きっとこう言っているだろう。
「── オレの言った通りの事が起こったじゃないか!」
自動車は人通りの少ない神宮の表参道を、緩いスピードで走った。

渋川善助は、他の蹶起将校らと一緒に、陸相官邸で捕縛された。
憲兵が捕縄をかけようとした時、渋川は憤然色をなして言った。
「そんなことをしなくてもおれは行く・・・縄をかけるのは止してくれ!」
「規則ですから・・・」
渋川と顔見知りの憲兵伍長は、同乗して、幾分ゆるめに捕縄をかけた。
磯部と一緒に少尉の軍服を着込んで蹶起将校と行動を共にしていた法華経行者の山本又は、前日状況が悪化したのを見て、憲兵隊に先輩の神谷少佐を訪ねて打開策を講じたり、杉山参謀次長に面接して意見具申したりしたが、いよいよ事が絶望になったのを知ると、山王ホテルで軍服を印半纏に着換えて部隊を脱出し、三月三日まで身延山に潜伏していた。
西田税は、その後仲間の手引きで転々と居を変えたが、三月四日朝、渋谷若木町の潜伏先を警視庁特高課員に踏み込まれて、逮捕された。
亀川哲也は、事態が悪化した二十八日の晩から、身辺の危険を感じて、久原邸に保護を求めて潜伏していたが、三月二日同家を脱出、市内各所を転々とした後に、憲兵の追及が急でとうてい免れ難いと観念して、九日に自宅へ立ち帰ったところを、私服憲兵に逮捕された。
2023/03/02
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