~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (4-02)
暫らくすると、寿はまた言葉をつづけた。
「栗原やわたしたちは、万一子とが破れた場合のについては、一つの考えを持っていたんです・・・それは、責任をによって解決する方法は、いわゆる武士道の観点からすれば立派ですが半面、それは弱い方法です。われわれの不抜の信念は、一度や二度の挫折によって砕けるものじゃない、自決によって断ち切られるような安易なものではなく、の苦しみを超克ちょうこくし、あらゆる苦難を破砕して闘い抜くことこそが、本当に強い生き方である・・・という信念です。わたしは、今もこの信念を堅持していますが、叛徒・・という絶対の汚名は、一死もって処するのみです! 東京の同志たちは、この叛徒・・という厳然たる事実を、何と考えているのか・・・わたしどもは、たとえ事が破れても、恥を忍んで生き永らえ、公判廷で最後までその所信を披瀝して、世論を喚起し、終局の目的貫徹のために闘う決意を固めていたんです。しかし日本臣民として絶対絶命の叛徒・・となった今、何を為すところがありましょう・・・もし、あえてこの現実を無視して公判廷に立ったところで、叛徒・・の言、いかにして訴える方法があるでしょうか。たとえ、その途がひらけたとしても、その訴えるところが世論の同調を得るが如きことがありとせば。それはいたずらに叛徒・・くみする者をつくることになり、さらに不忠を重ねる結果となるに過ぎないことを考えなければなりません・・・事、志とまったく相反し、完全に破れ去ったわたしどもの取るべき唯一の方法は、その言わんとし、訴えんとするところの一切を、ことごとく文書に託して後世に残し、自らは自決して、闕下をお騒がせした不忠を謝し奉るよりほかありません・・・!」
寿の言葉は、不慮の負傷で事件混乱の中心地から一人離れて熟慮しつづけていただけに、理路整然たるものがあった。それだけに彼の死を願う気持には、透徹した一途なものが感じられた。
寿は、語りたい最後の決意を述べ終わった安心からか、緊張した顔の硬ばりもやわらぎ、語調もおだやかにほぐれた。
「幸い、胸部の傷も軽快に向っています。腕の自由も、両三日中には回復するでしょう・・・それを待って、あえて起たざるを得なかった一切の事情や、信念、そして死を前にして主張せんとする一切を文書にして残す考えです・・・そのために、なお数日の猶予を与えて頂きたいのです」
決意はすでに決まった、とはいえ、その時期と方法についてはまだ未定であった。
河野の負傷の経過如何で東京へ収容する ── という指令は、すでに来ている様子だった。そんな状況では、十分体力が恢復するまでの時間が与えられるか、どうか・・・もしそうだとすれば、病院を出ることは自決の機会を失うことにもなるので、情勢次第では、いつでも決行できる準備と覚悟とが必要である。
「実は、お願いがあるんです」と寿は、しばらく黙った後に言った。「所沢の下宿に、亜砒酸を買って置いてあるんですが・・・それを持って来て下さい・・・使う意志はありませんが、万一に備えたいんです」
司は、今は弟の突き詰めた決意に押されて、その役目を引き受けるよりほかなかった。
翌々日、福岡から姉と外科医の義兄とが駈けつけて来た。司は沼津まで迎えに行き、熱海までの車中で一切の経過と、弟の心境とを伝えた。── 姉夫婦は、十分な予備知識を持って病院に赴いたのだった。
病院ではちょうど、負傷が軽快になったところから、三島憲兵隊長の第一回目の取調べが行われていたが、それがすむと、すぐ病院長の計らいで面会が許された。
寿は、病床にきちんと正座して、兄と遠路はるばる面会に来た姉夫婦を迎えた。三日前とは見違えるほど健康を取戻し、態度も落着いた柔和さにみちていた。
寿は、硬ばった表情の姉夫婦に向かって、微笑をもって相対した。
「委細は、司さんから聞きました・・・よく決心してくれました・・・後の事は決して心配なく安心して下さい」
姉夫婦はこもごも言った。
「有難うございます」
寿は素直にそう言って頭をさげた。
どうやら寿の東京への収容も、もはや一両日に迫っているらしかった。寿は、書き残すべき遺書もほとんど書き終わった、と話した。自決の決行が、今明日に迫っていることが、言外ににじみ出ていた。
「兄さん、あれを持って来て下さいましたか」
寿は兄の顔を見た。
司は亜砒酸の紙包を、黙って手渡した。
寿は、不審げに呟いた。
「これだけですか」
司が首を傾げると、寿は右手で咽喉を突く恰好をした。自刃のための刃物をいっているのだ。司は、そこまで考えが至らなかったことを恥じた。
「武士として、立派に切腹して死にたいと思いますが・・・」寿は声を落として言った。「拳銃も、軍刀も、今はわたしの手許にありません・・・せめて短刀でもと思いますが、それも手に入れる方法がありません・・・幸い、ここには見舞いにいただいた果物が沢山あるから、果物ナイフが一挺あったとしても、不思議はないと思います・・・誰にも御迷惑をかけることもないでしょう・・・兄さん、明日の朝、よく切れる果物ナイフを届けて下さいい。それも出来るだけ朝早くお願いします」
果物ナイフ? そんなもので自決出来るだろうかという不安と共に、寿が刃物の種類にまで心を遣い、いささかでも累を他に及ぼすまいという心底がはっきり見えて、心を揺すぶられた。
俯向いた姉の眼から涙が光って流れ落ちた。
2023/03/04
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