~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十二章  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
第十二章 (4-03)
「わたしは武士の作法に従って、立派に切腹して死ぬ覚悟です」寿は言葉をつづけた。「しかし負傷のため、右手が十分でありません。もし腹を切り損じていたら、どうかお許し下さい。幸いなことに、ここから皇居の方に向かって坐ると、亡き両親の眠って居られる浦賀と同じ方向に当たります・・・御両親も、きっと喜んで下さると思います・・・」
部屋の一隅には、酒肴の用意がととのえてあった。偶然同じ病院に入院していた同期生の末吉中尉が、河野の兄と姉夫婦が面会に来るというので、用意したものだった。
寿は、自分で出て行って、末吉中尉を呼んで来た。
「お燗番は、わたしに委せておいて下さい、お手のものですからね」
寿は、いまはすっかりはしゃいだ顔つきになって、愉快そうに笑い声をたてた。
別れの盃である。酒はジーンと肺腑にしみ、一瞬、厳粛な気分が流れた。
「立派にやって下さいね」
姉が案じ顔に言った。
「大丈夫ですよ、こんなものは何でもありませんね・・・ビール瓶の破片でも切れるんですからね」
寿は頸動脈に手をあてて、笑いながら外科医の義兄をかえりみて同意をうながすように言った。肯定とも否定ともつかない硬ばった笑いが、義兄と、同席の病院長の顔にうかんだ。
何やら信じ難いほどの明るい雰囲気だった。なごやかで、どこかへちょっと旅行に出る人の送別会のような気軽さであった。
「牧野は生きていたそうですね」寿がぽつんと言い出した。「いまでは牧野一個の生死など問題ではありませんが、三、四日前まではわたしにとっては大きな問題だったんですばね・・・心境の変化でしょうね」
寿はそう言って、自分でその心境の変化に耳を傾けるような表情をした。静かな、澄みきった表情であった。
翌朝 ── 十時頃、司は頼まれた果物ナイフと、それから別に日本剃刀を下着類に忍ばせて、病院に届けた。
「確かに・・・」
病院長は受取って、肯いた。
「後は、よろしくお願いいたします」
司は、弟に会わないで、帰京した。
翌朝病院から官報電報が、司の許に配達された。
『「── カワノタイイケサ六ジ四〇フンシキヨス」コラレタシ』
司は、熱海に駈けつけた。
様子を聞くと ── 寿は、前日の朝、司が届けた風呂敷包の下着類の中から果物ナイフだけを受取り、剃刀の方は、
「これはお返しします」と病院長に返した。
自刃したのは、午後三時頃 ── 附添婦がトイレットに赴いた隙に、河野は白衣を軍服にあらためて病室を脱出し、裏手の低い垣根を越えて山林の中に入り、真下に熱海湾が碧い色を湛えて見える場所の大きな松の根許に端坐して、果物ナイフで下腹部を一文字に割っ切り、頸動脈を突いてのめっていた。
附添婦の報告で、病院長が現場を探して駈けつけると、河野はまだ生きていた。
病院長が抱き起こすと、河野は振り向きざま頸部を指して、
「まだ・・・切れませんか」と喘ぎながら訊ねた。
頸部には数回刃物を加えたあとがあった。
病院長が黙って首をかしげたのを見ると、河野は鮮血にまみれた右手を振り上げて、さらに一突きを頸部に加えた。
その頃には、急を聞いて駈けつけた病院の人々が現場に輪をつくっていた。病院長が河野の上体を支えて、止血法を行おうとすると、河野は、
「止して下さい・・・・」と喘ぎながら拒絶した。
河野はもはや力が尽きたらしく、そのままガックリと前にのめった。
河野は担架で元の病院へ運ばれた。すでに絶命したものと思っていた人々が彼を蒲団の上に移す際に、
「北枕に・・・」と囁き合った。
するとその時、突然意識を回復した河野がハッキリした声で、
「皇居に向って・・・東向きにして下さい」
それなり、河野はまた意識を失った。
河野はその後も折々意識を回復しては、枕頭に詰めていた人達と、「刃物が骨に当てって切れなかった」とか、「刃物が鈍かった」とか、断片的に語った。それから次第に昏睡状態に陥り翌六日の午前三時には全く意識を失った。
永眠したのは、午前六時四十分 ── 割腹してから十六時間後であった。
2023/03/05
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