~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (1-01)
「── 前へ、進め!」
看守の号令を背後に聞いて、新井は重い毛布の包みを持って歩き出した。西も東も分らぬ所である。だが、あの高いコンクリート塀中であることだけは確かだった。代々木原で演習する際、自分には縁のない建造物としていつも無視していた、あの高いコンクリート塀の中だ・・・どうして自分はこんな運命に陥ち込んだのか?
覆面をしているのと、勝手が分らないのとで、新井の足は遅れ勝ちだった。だが、看守は横にならぶことを避けて、背後から「右ッ」「左ッ」と指図した。囚人の襲撃や逃亡をおそれてのしきたりであった。
幾棟かの学校のような細長い建物は、全部獄舎であった。監房の四囲に三和土たたきの廊下があり、それに三尺幅のマットが敷かれてある。この廊下で囲まれた真ん中に、監房がならんでいるのだが、それには角柱の格子がはまっていて、昔の牢獄の絵そのままである。
ようやく目的地に辿り着いたが、それは一番端の監房であった。頑丈な錠がガチャンとあけられ、二尺幅の狭い入口から、腰を屈めて中へ入った。
看守は黒い表紙の薄っぺらな冊子を渡して、
「この獄則通り起居するんだ」
突き放した言い方で、またガチャンと扉の錠をかけた。
最初の時、頭をかすめた意識が、急いでまた頭にかけのぼった。
── まだ自分は陸軍中尉だ。彼らからこんな取扱いを受ける筈がない!
だが、すでに獄衣を被せられた新井は、それがそのままに言葉にならなかった。唇をついて出た言葉は、半ば卑屈な、消極的なものだった。
「わたしは免官になっているのですか」
「訊いてみよう」
看守はそう言っただけで立去った。
── これが牢獄とといわれるところか!?
新井は獄則に指定された所定の位置に坐ったまま、改めて変わり果てた自分の姿を思い描き、室内を見廻した。三方が角柱の格子で囲まれ、十畳あまりもある板の間に幅二尺位の細長い茣蓙が敷いてあり、その上にたった一人東の方を向いて坐っているのだ。眼前を遮るものは、三尺ほどへだてた二重張りの板囲いである。
南側の格子には八寸角ほどの差入れ口があり、北側には囲炉裏型の洗面所がある。部屋の造作っとして眼につくのはそれだけだが、洗面所の隣の揚げ板を上げると、そこは便所で、おなり式の木で作った便槽が置いてある。手拭や掃除道具は、格子の外の窓際にさげてあり、室内にあるのは、新井が自分で抱えて来た毛布の寝具と薄っぺらな本が二冊あるだけだ。
だが、新井は本をあけて見る気もしなかった。僅か数時間前の連隊でのことが、遠い昔のことのように思われた。
いきなり隣の監房で、ドタ、ドタと足音がした。と思うと、バタンと揚げ板が上げられた。隣にも人間が居たのである。自分と同じ運命に投げ込まれた人間が・・・新井は胸に一種の懐かしさを掻き立てながら、全神経を耳に集中した。小便の音が聞こえる。ゆっくりと用を足した、と思うと、前よりも烈しい音をたてて揚げ板が閉じられた。そしてこんどは、ズシン! と床板を踏みならし、
「糞ッ!」
いまいましげに呟く声が聞こえた。
何か憤慨しているのだ。ひょっとしたら短気者の歩一の栗原中尉か、それとも磯部か・・・いずれのしても蹶起将校には違いない。誰だろう? 新井はじっと聞き耳を立てたが、隣人は二、三回咳払をしただけで、ついに誰か分らなかった。
夜になって、天井の中央に、十燭光ぐらいの電灯がついた。獄衣を着て独坐している自分の影が、何か忌まわしいもののように思われた。省線電車の音が、時々風の渡るように聞こえて来る。家では夕飯もすんで、あるいは睡りについた頃だ、と思う。妻は、夫が獄舎で変わり果てた姿になっているとは、まだ少しも知らずにいる。妻が連隊を訪ねて、はじめて事情を知った時の空しい悲しみを思うと、一層胸が痛んだ。彼は不覚にも涙を流している自分を発見し、起って、水道の栓をひねった。
2023/03/06
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