~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (1-02)
新井は板壁の正面の柱に、爪で「一延」と書いた。生後一ヶ月の長男の名前である。彼はその上を、あたかも子供の柔らかな皮膚に触れでもするように、指先でそっと撫でた。これから毎日爪跡を撫でながら、どれだけ凹んだら、白日を仰げる身となるか・・・彼は、護良親王や、物語の巌窟王のことなどを思いうかべた。こうして新井の長い獄中生活がはじまった。
だが、新井には、自分がどうして護良親王や巌窟王の運命を辿らなかればならないのか、得心が行かないのである。新井は武力行使の蹶起には反対した。その時期に非ずというのが、彼の見解であった。それがため彼は蹶起の謀議からは除外され、同志からは裏切り者視された。
彼は二十九日の朝、奉勅命令が出たので農林大臣官邸へ自分の部下を引取りに行く際、溜池から平河町へ抜ける途中のせまい道路上で、陸相官邸へ向う栗原中尉とぱったり出会った時のことをはっきりと思い出す。
あの時、蹶起将校は全部自決を迫られ、陸相官邸に集合を命ぜられていたのだ。長靴をはいた栗原は、うつむき加減で歩いて来た。顔を合わせるのはまずいな、と思ったが、逃げも隠れも出来なかった。ひょいと顔をあげた栗原の視線は新井の視線とはげしく衝突した。
── 裏切り者め!
栗原は、無言のまま新井を睨みつけた。口をへの字に曲げて、右手を腰の拳銃にあてた。だが、拳銃のサックはすぐには開かなかった。
咄嗟のことで、新井は退いて部下の援助も求められないまま素早く走り寄って、栗原のサックをさぐる右手を握り込んだ。憎悪の感情が動いたが、今は火花を散らす時ではない、と新井は自分を押さえた。
「栗原さん、残念でしょうが、後は立派にやって下さい」
栗原は何も言わなかった。急に力の抜けた栗原の手は女のように柔らかであった。
二人は、左右に別れた。──
だが、そういう新井を、連隊の将校も、中央の幕僚も、予審官も、別な眼で見ているのだ・・・新井は歩三の急進分子であったのだから、今回の事件の勃発を予知していない筈はない。何かの都合で叛乱に加えられなかっただろうが、その代わり彼は叛乱軍と気脈を通じて、自己中隊を引き連れ、九段の臨時陸軍省、参謀本部、戒厳司令部襲撃を企図した。靖国神社参拝は、配置離脱の口実に過ぎない・・・それが軍当局の先入観念になっている。新井が皇軍相撃を避けさせる目的をもって配置を離れ、靖国神社参拝に赴いた時、軍当局は「新井中尉が一個中隊をもって九段方面に向った」と色めき立ったのを。彼自身は少しも知らなかったのである。
「── 配置の地を離れる時、叛乱軍に利益を与えるとは知らなかったか」と、予審官が訊問した。
叛乱軍 ── と聞いて。新井は驚いた。あれは第一師団長の隷下に入って、連隊から糧食薪炭の補助を受け、小藤大佐を指揮官につけられて行動していた部隊ではなかったか。叛乱軍ならば最初から討伐しても余儀ないことで、それなら何も皇軍相撃などの心配する必要はなかった。
配置から離れて、靖国神社参拝などする必要もなかったのだ。あの第一師団命令が出たので、新井はこれで蹶起部隊は「皇軍」になれた。と解釈していたのである。それでは師団長は、叛乱軍の総指揮官だったのか・・・一切の混乱と間違いの原因は、そこにあったのだ”!
新井は、頭の中がグルリと一廻転した。
「叛乱軍とは、夢にも思いませんでした」
新井は正直に告白した。
「それでは、と・・・」予審官はつづいて訊問した。「占拠部隊に地区隊命令が下っていたこと、奉勅命令が鎮圧部隊に下達されても、占拠部隊には下達されなかったこと・・・これは配置の地を離れた原因動機とはなっても、ゆえとはなるまい?」
これは新井の配置を離れた行為が、辱職じょくしょくに該当するか否かを決定する、きわめて大切な質問であった。新井としては大いにがあるのだが、しかしその公正な判断は司法当局に仰ごうと、進んで憲兵隊に自首したのを、そのまま投獄されてしまったのである。その司法の職にある予審官から「故とはなるまい」と言われれば、
「ああ、そうですか」と答える外はなかった。
とは原因か、目的か、それとも結果を指すものか、概念の規定が必要であった。刑法の精神から言えば、それは当然任務達成上の理由である。それを予審官はみずから原因、動機という別なものを捉えてきて、「これはではない」と論じた。刑法に対する新井の無智もさることながら、被告の利益を一顧だにしない予審官の詭計きけいにも似たやり方は、あとで新井の腹の中を煮えくりかえらせた。
これで新井の辱職・・が決まった。
2023/03/07
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