~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (1-03)
新井は自分の前途に絶望を感じたが、またすぐ思い直して、甘い夢を追った。
── 起訴、不起訴を決めるのは検察官である。事件の真相がわかれば、かならず身の潔白は証明される!
だが、万一を期待した不起訴の言渡しもないうちに、季節は春から初夏へと移った。窓外運動場の池のほとりの接骨木にわとこや猫柳が、目覚ましいスピードでぐんぐん伸びはじめた。全開された窓からは、若葉に反射した緑色の光線がパッと差し込んで、看守が廊下を通り過ぎる時、狭い角柱の格子の隙間から、拡大された映像がゆらりと監房の中に揺曳ようえいする。── 綿入の獄衣も、袷なった。
窓外運動は三人一組で行われる。新井の組は、ずんぐりした工兵中尉と、丸顔の可愛らしい新品少尉・・・最初の頃は頭髪もひげものび放題で、お互いに忌まわしさを感じ、挨拶も交さなかったが、そのうちに看守の眼を盗んで口を利き合うようになった。
運動中は三人一緒になって駈け廻ることもあったが、体操を五、六分やって、あとはめいめい勝手に静かに散歩するのが常であった。運動時間は三十分と決められている。散歩の足は、自然に金魚の遊泳しているコンクリートの池のほとりに集まる。ニュースを交換するためである。
「話をしてはいけません」
看守台の看守は、毎度のように繰返すが、しかし被告たちは水面に見入ったり、深呼吸をしたり、あるいは体操をやりながら、話さないふりをして話すのである。── 事件後、広田弘毅に大命が降り、寺内大将が陸軍大臣になったが、それを新井が知ったのも、この池のほとりであった。
事件後、社会がいかに変わったかは、獄中にある者の関心の的であった。自分たちの境遇の変化は、ともすれば社会の激変を思わせ勝ちである。種々なニュースを綜合すると、こんどの事件を機会として、国家は、大きな転換をしたらしい。しかしそれは蹶起将校らが希望したような方向ではなく、反対に蹶起将校を犠牲にして、軍部は一層の独裁的な地歩を確立したようである。寺内による陸軍の粛清が行われたが、その重点的目標は、叛乱将校につながる皇道派分子の弾圧であり、追放であった。皇道派の青年将校の間に信望のあった真崎大将は、「叛乱軍幇助」の名のもとに、同じ陸軍刑務所に収監されているという。
「真崎大将が・・・?」
新井は首をかしげた。
真崎大将は、叛乱軍将校たちに担がれたことは、確かである。その真崎がそれに呼応して、どれだけ活動したかは不明であるが、それなら歩三の青年将校に対して「岡田なんかぶった斬るんだ」と明らかに示唆した山下奉文少将は、一体どうなのか・・・だが山下少将は、どうやら無事で陸軍省に納まっているらしい様子だった。
地方に散在していた皇道派青年将校は、東京の騒擾事件に呼応して策動した嫌疑で、片端から検挙され、東京に送らて来ている。鹿児島の菅波三郎大尉、朝鮮羅南の大蔵栄一大尉、青森の末松太平大尉、志村隆城中尉ら・・・それに相沢公判特別弁護人の満井中佐と、事件中小藤大佐の副官となって活躍していた歩一の山口大尉、そのほか予備役陸軍少将でアララギ派の歌人としても有名な斎藤瀏が収監されていた。
青年将校と思想的に繋がりのあった、というよりは思想的根幹であった北一輝をはじめ、西田税、渋川善助、その他何人かの民間人が投獄されていることも、追々にわかった。知れば知るほど、根こそぎの大弾圧であった。
── これじゃ、オレが飛ばっちりを受けて投獄されるのも無理はない!
新井は理窟に合わないが、そんな感慨に陥ち込んだ。
軍事参議官は喧嘩両成敗の名のもとに、荒木、真崎とともに反対派の松井、林、阿部大将らが退陣させられた。そしてその間に浮かび上がったのは、統制派幕僚の一群である。彼らが寺内の粛清を牛耳っていることは、火を見るよりも明らかだった。
叛徒を出した部隊長は、全部待命を仰せつかった。新井ももちろん待命であった。しかし、彼はそれらのニュースを運動場の池のほとりで聞くまでは、自分自身の身分がどうなっているのかさえも少しも知らなかったのだ。
2023/03/07
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