~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (3-01)
公判も、最近は跡絶えがちであった。
天気の良い日には、蹶起将校たちも拘置監の中庭へ運動に来ていた。刑務所内では一番雅到に富んだこの庭で、彼らも運動がしたかったのであろう。ヒヤシンスやチュウリップはとうに散って、咲いているのは池の睡蓮だけだが、この花は前の一輪がしぼむ頃は、かならず代わりの蕾が水面に浮んでいて、いつも見る者の眼を喜ばせた。わずか四坪ほどの水面だが、そこを己が天地として、金魚の群がいつも無心に泳ぎ廻っている。
運動場での蹶起将校らは、なかなかの元気であった。窓が閉ざされているので、監房からは覗き見も出来ないが、靴音もにぎやかに駈けめぐって、時に掛け声とも話し声ともつかない明るい声がする。出る所へ出て、言うべきことは言ってしまったあとの清々しい気分が、その見えない一挙手一投足にも感じられる。中でも、号令が連隊一の評のあった安藤の声が、一際高く聞こえた。
だが、雨の日がつぐくと、獄中の拘禁生活は、退屈さに身も心も蝕まれる。拘禁に対する自暴自棄な気持が頭を擡げるのも、そういう時である。
「房内運動、三十分・・・」
号令がかかるや否や、誰かが必ずやり出す。ドタ、ドタ、ドタ・・・故意に大きく床板を踏鳴らす。ウン、ウウン・・・と呻きに似た気合の籠った声も聞こえる。若さを持てあましているのでもあった。
「牢屋というものは、実に頑丈だな・・・ビクともしやがらん!」
隣の中尉の声がする。
「壊そうとしてもダメですよ、格子は下から生えてますからね」
看守がからかい半分にそう言う。
「畜生、実に癪にさわる。出たら、あいつらの首を引っこ抜いてやる!」
「それだ、そんな考えだから、ぶち込まれるんです・・・その恰好じゃ、まるで動物園のゴリラですよ」
「すると、あなた方は動物園の番人か」
「何です、動物園の番人・・・・?」
要するに退屈まぎれの、看守相手の無駄口である。だが、そんな無駄口を取り交わしながらも、しきりに「ウン、ウン」と格子の角柱を揺すぶっている。
午後には入浴が行われる。雨の日は廊下伝いに入浴場へ行く。新井の監房はちょうどその通路にあたっているので、蹶起将校らとはちょいちょい顔を合わせる。
安藤ははじめて顔を合わせた時、「おや、新井もか」と言いたげな表情で眼をそばだてたが、すぐ、
「元気かい」と朗らかな声をかけてきた。
「元気です」と新井は答えた。
新井の部下で、中隊の初年兵を全部連れ出した鈴木は、新井が微笑を投げかけても、固くなって敬礼し、
「中隊長殿、申訳ありません」
小声で詫びて通り過ぎた。
鈴木の同期生は、歩三で清原、常盤と三人揃って蹶起したが、行動範囲がよくわかっていなかったらしく、事件中に新井が説得に赴いた際も、
「ずいぶん大きくなったんですね・・・!」
自分らが起こした事件に自分で驚いていたほどだった。
栗原は。新井が先に会釈しても、相変わらず「フン」といった表情で、そっぽを向いて通り過ぎる。彼はまだ新井を「裏切者」として、憎悪を抱きつづけている様子だった。
ある日、看守が監房の四隅の柱に、竹釘を打ち込んで行った。蚊帳のつり手をかける準備だった。
夜になると、北側の窓に斜めに大きな月が昇った。いかにも夏の月らしく赤味を帯びていて潤いのある柔らかな光が監房の寝床の上まで指し込んで来た。手で掬えるような、豊富な光であった。
代々木練兵場で夜間演習をしているらしく、鋭い銃声が折々思い出したように起こる。あおの銃声を聞いているうちに、思いは事件後満洲に送られた旧部下の初年兵達の上に馳せる。第一師団の満洲派遣はすでに規定の方針であり、またそれが蹶起を早めた動機にもなったのだが、しかし今はその上に、「懲罰」の意味合いを附加されて送られたのである。
── 彼らは、今頃はどこで匪賊討伐に従事しているだろうか?
2023/03/11
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