~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (3-02)
新井は、すでに予審官のやり方で彼らの狡猾な手の内を見てしまったので公判廷では徹底的に闘う覚悟をきめていた。
新井がそういう心準備をしていると、ある朝 ── また思い出したように第一次公判の人たちが、ぞろぞろと入浴場の方へ引率されて行く姿が窓から見受けられた。久しぶりの出廷である。裁判は春から夏へと移ったが、彼らの服装は前と同じであった。
だが、この日の彼らの帰りは、いつもより早かった。おかしいと思い、伸びあがって見ると、最初に将校団が通った。強い夏の太陽に照らされながら、彼らはうつむき勝ちに黙々と歩を運んで来る。歩き方に元気がなかった。いつもは明るい話し声など聞こえたのに、今日は誰も咳払い一つ立てないのである。一団を包む暗鬱な空気は、明るい太陽の下でいかにも対蹠的だったので、新井は胸に不吉な予感を掻き立てた。
── 変だぞ。ひょっとしたら・・・?!
将校団はそのまま塀のかげに吸い込まれて行った。
それから一両日して、新井らの公判がはじまった。相被告は歩一の山口と歩三の柳下元中尉であった。── 柳下は、事件勃発当時、機関銃隊の週番士官をしていたが、週番司令の安藤の要求を拒むことが出来なくて、部下を心ならずも出動させてしまった。その罪に問われているのだった。
朝、三人が看守に伴われて囚人自動車で通用門を出ると、公判廷への道は地方人で雑沓していた。道の両側にテントを張り、その中に面会の順番を待つ人達が大勢詰めかけていた。中にはパッと明るい派手な洋装の娘も居たが、大方は黒紋付を羽織った婦人たちで、男子は少なかった。
その光景を一ト眼見た瞬間、新井は、第一次公判の人達に判決が下されたのだと直感した。面会人たちの一様に打ちひしがれた表情が、それを説明していた。だが、知りたいのは、その詳細であった。
「助かったでしょうか」
新井が万一の期待をかけて囁くと、
「ううん」と山口がかぶりを振った。「将校はみんな死刑だ」
その言い方は、何やら自信あり気だった。
死刑 ── それは事件が起こった直後、連隊でも噂されていた。だが、五・一五事件の前例もあることなので、新井はそう簡単には信じられなかったのだ。
だが、先輩の山口からそう聞かされると、やはり死刑は確実で、しかもそれは公判以前にすでに定められた方針であったのかも知れない、と思われた。山口の岳父は侍従武官長をして居り、中央の有力者にも縁故がいるので、恐らくその方面から処理方針を直接聞いているのだろう、と新井は察した。
午前中の公判は、人定訊問だけで簡単にすんだ。
囚人自動車で面会人控所にさしかかると、テントの中に田舎者じみた四十五、六の婦人がひとり淋し気に佇んでいる姿が、ふと新井の眼にとまった。教育総監を襲った高橋太郎少尉の母親であった。
高橋は連隊旗手をしていた。昨年の秋季演習には、新井も連隊本部詰めとなり、演習地では幾度か宿舎を共にし、身上話もきいた。彼は母一人、子一人で、親子は東京の親戚に寄寓していたのだった。近く一軒持って、親子水入らずで暮らそうという矢先に、息子は叛徒となってしまったのである。そして彼女は、いま息子に死刑の宣告が下されたことを知ったのだ! 他の面会人には伴らがあるが、彼女はただ一人でぽつねんとしていた。
午後ふたたびそこを通ると、面会人はもう疎らであった。
面会所の長椅子に、二人の親子らしい男たちが腰かけていた。起ちあがる元気もなげに、じっと腰かけたまま夕風に吹かれている。坂井直中尉の父親と、その弟とであった。父親は退役陸軍少将であるが、息子の叛徒の汚名に世間体を恥じてか、袴もつけず、和服の着流しであった。軍人となった二子のうち、長男は病死し、志を継いだ次男の直は死刑に処せられた。これからは畑違いの医専に通う末子を頼りに生きて行かなければならない・・・そういう淋し気な様子が、骨張った肩先に感じられて、新井は思わず眼をそむけた。
公判は三、四日おきに続けられた。
2023/03/11
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