~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (4-03)
憲兵中尉の分隊長は、すぐやって来た。
連隊長が事情を説明して、
「何か方法はないか」と訊ねた。
すると、分隊長は暫く考え込んでいたが、
すると釜山の方はダメです」と言った。「明二十九日は土曜日ですから、清津から午後三時に新潟向けの船が出ます。新潟の方は、警戒がまだ緩やかだと思いますから、それで行って下さい。その前後一時間は、警戒を解きます」
話の様子では、どうやら連隊長の「計画」ではなさそうだった。
大蔵はいくらか警戒心をゆるめた。
「ですが、わたしが行くにしても、旅費がありません」
「いくらぐらい要るのか」
と連隊長が訊いた。
「往復百円」もあればいいでしょう」
連隊長は経理部の将校を呼んで、金百円也を連隊長の機密費として出させた。
しかし、不都合なことがもうひとつあった。
「わたくしは週番ですが、これをどうしますか」
すると連隊長は医務室から軍医を呼んで、事情を話して頼み込んだ。
「下痢か何かやったことにして、診断書を書いてやってくれんか」
それで何もかも一切が片附た。
大蔵は週番を一晩だけ早く交替して家へ帰り、早目に寝床に入った。だが、明日の冒険や、情報の皆目分らない東京のことなど考えると、頭の中が錯綜して睡れそうもない。そこで彼は丹前を着たまま枕許にラジオを持ち込んで、朝まで聴いていた。
そると夜明けの六時に、ラジオは戒厳司令部発表を報道した。
「── 二十六日の朝蹶起せる部隊に対しては、各々その固有の所属に復帰することを、各上官よりあらゆる手段を尽くし、誠意をもって再三再四説論したるも、彼等はついにこれを聴き入るに至らず、そもそも蹶起部隊に対する措置のため、日時の遷延せんえんを敢えて辞せざりし所以のものは、若しこれが鎮圧のため強硬手段を執るにおいては、流血の参事或は免るる能わず、不幸かかる情勢を招来するに於いては、その被弾地はまこに畏くも宮城はじめ皇王族におよび奉るおそれもあり、且つその地域内には、外国公館の存在するあり、かかうr情勢に導くことは、極力これを回避せざるべからざるのみならず、皇軍互いに相撃つの如きは、皇国精神上真に忍び得ざるものありしに因るなり。然れどもいたずらに時日のみを遷延せしめて、しかも治安維持の確保を見ざるはまことに恐懼に堪えざるところなるをもって、上奏の上勅を奉じ、現姿勢を撤し、各所属に復帰すべき命令を昨日伝達したるところ、彼等はなおこれを聴かず、ついに勅命に抗するに至れり。事すでにここに至る。ついに已むなく武力をもって事態の強行解決を図るに決せり。右に関し、不幸兵火を交うる場合においても、その範囲は、麹町永田町附近・・・」
大蔵は最後まで聴かなかった。
「何を血迷うたか」彼は声に出して言った。「いかなる事情があろうとも、勅命に抗するとは何事か?」
彼は居ても立っても居られない気持に駆り立てられた。すぐにでも東京へ飛んで行って、
「勅命に抗するとは何事だ。もう止めろ。兵を退け」と説論したい衝動にかられた。そのうえなお言うことを聴かなかったら、蹶起将校の一人々々を、自分の手で叩き斬ってやりたかった。
ふぁが、そのうちに彼は、ふと思いついた。
「そいうだ」と彼は声に出して呟いた。「戒厳司令部参謀長宛に、こちらの師団参謀長から無電を打って貰おう、その電文を、蹶起部隊の香田大尉に手交されたい・・・」
大蔵は有り合わせの紙に、急いで電文の下書きを書きつけた。
『── イカナルリユウアリトオエドモタイメイニコウスルハフトドキナリ、タダチヘイヲヒケ』
かれはその紙片を懐に入れると、丹前姿のまま家を飛び出した。穿物をさがす余裕もなく、スリッパのまま駈け出した。
2023/03/14
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