~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (4-05)
一日、二日・・・と経った。
新聞やラジオの報道で、事件は意外に大きかったことがだんだん分かった。野中大尉が自殺したことも新聞で知ったが、あの聖人のような温厚な野中大尉が、首魁として名を連ねていようとは、全く思いがけなかった。
── 安藤に引きずれたんだろう!
大蔵は、そう想像した。
だが、その間に連隊の空気が、大蔵に対して何となく変になってきた。彼は皇道派の急進分子として知られていたので、東京の事件が失敗に終わった今、それ見たことか、と反対分子から白眼視されるだろうことは覚悟の前だったが、それにしてもどうも連隊の空気がおかしい。
ちょうど中隊教練に対して、近く師団の随時検閲が近づいていたので、その日大蔵は中隊初年兵を練兵場に連れ出し、検閲に対する予行演習をやっていた。
するとそこへ、連隊長から呼出しが来た。特に、官舎へ来い、と言う。
大蔵が連隊長官舎へ赴くと、応接間には連隊長と憲兵分隊長が坐っていた。
「まあ、こっちへ坐れ」
連隊長は、なぜか大蔵を上座に据えて、
「演習中、わざわざ君に来てもらったが・・・こんどのような事件があってみると、君らの意見は非常に大事だから、忌憚きたんのない意見を述べてくれんか。中央部へも反映することだから」
いくら連隊長のいいつけでも、事件に対する忌憚のない意見を述べるのに、憲兵分隊長がわざわざ同席しているのはおかしい!
大蔵の頭にはすぐそれがピンと来たが、もう引込みがつかなかった。
「そうですか・・・・では、何なりといいましょう」
大蔵は開き直った。
すると傍らの憲兵分隊長が、憲兵隊の用紙を取り出して、
「原籍は?」とやり出した。
「ちょうっと待って下さい」大蔵はさえぎった。「それじゃ、まるで聴取書を取るようなもんじゃないですか・・・・そんなものに、わたしは意見は述べられません」
「そうか。それじゃ、そんなことは抜きにして、お互いに話し合おう」
連隊長は間を取りなした。
だが、結局、用件は聴取書を作ることだった。
大蔵はペテンにあったようで腹が立ったが、争っても仕方がないと思い返し、憲兵分隊長の訊問にはなるべく簡単に答えて、その場を済ませた。
連隊長官舎を出る時、送って出た連隊長が玄関で言った。
「今日は、ちょっと用事があるかも知れんから、演習は他の者に任して、君は中隊長室を出ずにいてくれ」
「承知しました」
大蔵は連隊へ帰って、連隊長からいわれた通りの手配し、ひとり中隊長室に残った。
だが、どうにも落着かなかった。憲兵分隊長に聴取書を取られたことが、頭から離れないのだ。何のための聴取書を取ったのか?
── おかしいぞ、これは?
だが、大蔵はどう」考えてみても身の拘束を受ける覚えはない。事件は、彼が東京を出る時はやらないようにと決めて来たのに、奴らが勝手に起こしてしまったのだ。だが、起こった以上は仕方がないとして、大乗的な見地から陸軍全体の結束 ── 殊に北辺の護りを固めるための結束を強調し、進言したまでである。それが一体何だというのであろう?
殊に解せないのは、連隊長の態度だった。何だって憲兵分隊長の同席の場所で意見を述べろと言い、結局は聴取書を取らせたのか・・・そういえば、事件中、大蔵に東京行きをすすめたのもおかしい・・・ひょっとしたら、連隊長は事件中大蔵が東京に呼応して連隊内で策動することを怖れて、わざわざ東京へ追出しにかかったのではあるまいか。
── だとすると、これは危ない!
大蔵はそう直感した。ひょっとしたら、蹶起部隊の失敗に乗じて、早く反動勢力が東京をはじめ、全国各地に散在している同志将校を弾圧し始めたのかも知れない・・・どうもそうらしく思われる。。
大蔵はもはや中隊長室に安閑としては居られなかった。万一の場合のために、身辺の物を整理しておかなけらばならない。
大蔵は、中隊長室を飛び出した。
2023/03/16
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