~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (5-01)
大蔵の監房から通路を隔てて向うの監房には、高橋蔵相を襲撃した近歩三の中橋元明が居り、その左右に陸相官邸を占拠した竹島継夫と、豊橋の教導隊から栗原部隊に加わって首相官邸を襲撃した対馬勝雄が居るのが、格子の間から見えた。
大蔵は、毎日正面の中橋と片仮名通信を交して、よくわからなかった事件の内容を知ることが出来た。
通信は、指で空間に片仮名を書いて送る。看守が来ると、急いで止める。看守が通り過ぎると、また始める。それはまだるッこく、緩慢で、根気を要する仕事であった。だが獄中の無聊が、彼らをその根気仕事へ駆り立てたのだった。見つかればむろん懲罰もので、それだけにスリルが感じられて秘密な楽しみでもあった。そして馴れると、それは互いによく通じた。
大蔵はそれによって、事件中、奉勅命令は正式にはついに下達されなかったことを知った。
重大な点である! 命令が下達されないのに、当局は「大命に抗したり」とした・・・そこに軍首脳部の露骨な謀略がある。
── 一切が引っかけられ、ペテンに会ったのだ!
大蔵は、改めてそう思った。
中橋は、大蔵が「野中が自決したのに、皆はなぜ準じなかったか」と質問したのに対して、憤然とした面持ちで送信して来た。
「── ノナカタイイハ、ジケツシタノデハナイ。二十九ニチ、一ドウガサイゴノダンゴウデ、ジケツヲケツイシタトキ、サイゴマデジケツヲトメタノハ、ノナカデアル。ワレワレガジケツシタラ、アトドウナルカ、トイツテトメタ。ソコヘニナカタイイヲ、ヨビニキタ。ヤマシタホウブント、イデセンジ ── ノナカノモトノレンタイチョウ ── ダ。ノナカハ、デテユクトキ、ワレワレヌムカツテ、ヤツテハイカンゾ、トイツテ、デテイツタ。ソノノナカガ、ジケツスルハズガナイ。カナラズタサツダ。ノナカタイイハ、コロサレタノダ!」
中橋は頑としてそう思い込んでいる様子であった。
夏に入って、蹶起将校らの判決が決まった。先任の香田清貞をはじめ安藤輝三、栗原安秀、竹島継夫、対馬勝雄、中橋基明、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞薾、安田優、高橋太郎、林八郎の元将校十三名、それに民間側の村中孝次、磯部浅一、渋川善助、水上源一の四名・・・計十七名が死刑を宣告され、合計七十六名が有罪となった。蹶起将校中で死刑をまぬかれたのは僅か五名で、それらの者はみな無期懲役であった。
判決を受けて公判廷から戻って来た中橋は、すぐ大蔵に送信して来た。
「── シケイニナツタ」
中橋の顔には、引きつったような微笑がいかんでいた。
だが、死刑の宣告を受けてからの彼らの動静は、静謐せいひつそのものであった。もはや余命幾許もないので、時間を惜しむかのように毎日小机に向かって、何やら書き物に専念していた。多分心事や後事を託する手記や手紙であろう。或いは遺書を書いているのかも知れなかった。
2023/03/17
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