~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (5-02)
七月に入ると間もなく、入浴場の西側の空地に、新しい 赭土あかつちあかつち の堆土が見えた。入浴の往復のたびごとに望見されるのだが、入浴場の窓にはカーテンが下げてあるので、浴場からは見えない。五つある堆土は、あまり高くはなかったが、緑の夏草の中に見える赭土の色は、何か毒々しく、見る者の眼に 忌いま まわしい感じを与えた。堆土のわきには、細長い壕を斜に掘ってあった。── 何だろう? いつもそう思うのだが、よく分らなかった。
だが、それが何に使われるのか、間もなく分かった。死刑囚をその中に入れて、これを射殺するための壕だった。
叛乱将校らの死刑が執行された七月十二日は、朝からよく晴れていた。
前日、中橋らが次々と入浴に出て行くのを、格子の間から見ていた大蔵は、「近いな」と思い、ずっと前の監房から眼を離さずにいた。すると夕食後、 はすかいに見える対馬が、向いの誰かに手旗信号で通信しているのが見えた。
読んで行くと、
「── アスシケイ」
やっぱり! と、大蔵は呼吸を詰めた。
対馬は特別配給品か、それとも差入れ品か、青っぽい艶のいい林檎を一つ手にして、しきりに向いの房の者に見せびらかしている。
── おい、喰いたいだろう、どうだ・・・どうだ!
そんなおどけた恰好で、一口齧っては見せびらかすのである。
だが、その林檎も喰い終わった。すると対馬は起ちあがって、向いの房の者に挙手の礼をし、
「さよなら!」
声に出して言った。
もはや就寝時間であった。
大蔵は寝床に横たわったが、眠れなかった。夜更けてから、中橋らの監房のならびで、死刑囚たちがしきりに騒ぐのが聞こえて来た。天井の薄暗い電灯を見つめながら聞き耳をたてていると、騒ぎの一つ一つの声がはっきり聞こえる。そのうちに軍歌の合唱になった。
その軍歌の合唱が止んだ。と思うと、誰かが詩吟をやり出した。
「・・・国に報ゆるの丹心自ら空しく労す。此の生何ぞ惜しまん 鴻毛こうもうに附するを。雲霧を破除する日豈無からんや。 磨礪まれい霜深し 偃月刀えんげつとう・・・!」
明治九年、肥後の神風連に加わって処刑された加屋栄太の辞世の詩であった。偃月刀は薙刀に似たもので、関羽が此れを用いた、と詩吟集に註が書き入れてある。
なかなかさびのある、いい声である。拍手にまじって、
「栗ッ!」と中橋の声が一きわ高く走った。「うまいぞ・・・貴様、ほかにいいところはないがいまの詩吟だけはうまいぞ!」
ドッと笑い声と拍手がまき起こった。
その騒ぎの間を縫って、浪々と観音経を誦ずる声が遠くから聞こえて来た。耳をすまして聴き入ると、それは渋川善助の声だった。渋川は一番はずれの房に居るらしかった。
そのうちに夜が白々と明けはじめた。
すると香田の声で、
「おーい。これから『君が代』をやる・・・オレが音頭をとるぞ!」
それにつれて、合唱がまき起こった。合唱は二度繰返された。
それがすむと、また香田の発生で、万歳の三唱が行われた。
「── 天皇陛下、万歳!」
「── 万歳!」
「── ばんざあーい!」
もう起床時間で、大蔵らのならびの者はみな起きて坐っていた。廊下をどよめきわたる「万歳」の声は、大蔵たちの腸をえぐった。
2023/03/19
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