~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (5-03)
大蔵は格子の間から、中橋らの方をじっと見つめた。中橋もこちらを気にしている様子だったが、こちらの板壁にはめ込んであるガラス戸に朝の太陽が反射していて、向うからはよく見えないらしい。視線はこちらに向いているのだが、合図をしても何の反応もないのである。最後の決別をしたい様子が、ありありと見えるので、合図をするのだが、向うには通じない。もどかしい! 大蔵はガラス戸を打ち破りたい衝動に駆られた。
すると、そこへ看守が廻って来た。棕櫚で編んだマットの上を、音のしないようにやって来たのである。
看守は、小倉師団から派遣されて来た顔馴染みの男だった。
「おい」と大蔵はいきなり呼び止めて、格子のガラス戸を指差した。「そこを開けい!」「ハッ・・・」
不意を喰った看守は、まるで上官から命令でもされたように、急いでガラス戸をサッと開けた。同時にガラス面に踊っていた光の反射が消えてなくなった。
中橋の隣の竹島が、先ず気づいて、こちらを指差し、
「おお・・・!」と声を発した。
竹島は格子に近づき、隙間から両手を出した、と思うと、合掌して、じっと ── 大蔵の感じでは一分間ぐらい ── 冥福した。
それから竹島は朗らかな、子供っぽい顔つきに戻って、懐中から「ほまれ」の袋を取り出して見せびらかした。軍隊タバコである。
── おい、どうだ、欲しくはないか。
そんな様子で、竹島は「ほまれ」の袋を高くかかげて、空中に振った。
そのうちに、中橋も大蔵を見つけた。
「大蔵さん」中橋は格子の間に口を寄せて言った。
「・・・あとを頼んだぞ!」
もはや獄則などは守って居られなかった。
「よし」大蔵はすぐに大声で応じた。「貴様らの蒔いた種は、決して亡びないぞ・・・これから芽をふくんだから、後を振向かずに、まっすぐ死んで往け・・・安心して往け!」
その声をいきつけたらしく、見えない場所から、歩三の坂井の声が起こった。
「大蔵さん、坂井だ・・・オレは、永久に陸軍中尉だぞ! 官位なんか剥奪されて、たまるものか・・・坂井の魂は、東京の上空を、永久に飛び廻るぞ!」
「よし、分かった」
大蔵は応じた。
すると坂井のすぐ隣りあたりから、こんどは香田の声があがった。
「大蔵、オレだ・・・オレらの精神は、貴様には分ってるだろう・・・あとを頼むぞ!」
香田とは、大蔵は同期生であった。
「よく分ってる・・・安心して往け!」
大蔵は怒鳴り返した。
方々で「さよなら」「さよなら」と決別の声がし、また「万歳」が間歇的にどよめいた。
その間にそちこちで扉を開ける音がした。すでに何人か組になって刑場へ引き出されて行った模様である。
すると間もなく、九日前の朝の相沢中佐の時と同様、代々木練兵場から遭遇戦の演習と見せかけた激しい空砲射撃に音が起こり、その間から「天皇陛下万歳、万歳!」「万歳!」の叫び声が聞こえて来た。と、と思うと、空砲に混じって、
── バリ、バリ、バリッ・・・・!
鋭い、重々しい実弾の音が、万歳の声をかき消した。
「・・・やられた!」
大蔵は思わず呻き声を発した。
第一陣 ── 五名の元将校が、赭土を盛り上げたあの忌まわしい壕の中で、若い生命を断たれたのである。
気が付くと、いつの間にか大蔵の前の中橋らの監房は空になっていた。あさの強い光が、主人の居なくなった房を、ただいたずらに明るく照らしている。
2023/03/20
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