~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (5-04)
入浴場の向うからは、再びするどい「万歳!」の叫びが聞こえて来た。それをかき消すかのように、代々木練兵場での射撃の音はなた一段と激しくなった。その空砲の中に実砲がまじれば、それでお終いである。
「北先生・・・!」
大蔵は堪りかねて、大声で叫んだ。── 彼は、北一輝が同じ棟の四つ五つ先の監房にいることを、看守から聞いていたのだ。
「おお・・・」
聞き覚えのある北の声が、返って来た。
「先生、同志の死刑がはじまってますよ・・・御経を上げて下さい!」
「御経はいらないよ」北の落着いた声が大蔵の取り乱しを叱りでもするように重々しくひびいた「もう神仏はちゃんとお迎えに来てくれている・・・御経なんかもうその必要はないよ・・・」
その間に空砲の音はまた一段と高まり、バリ、バリッ・・・と実砲の音が混じった。
「実に、見事じゃないか」北の声がまた銃声の高鳴りの間を縫って聞こえて来た。「・・・この見事さをもってすれば、革命は必ず成ったね」
北ももはや自分の感情が制しきれない様子であった。
大蔵はまたじっと、耳を澄ませた。
激しい銃声の中で、また「天皇陛下、万歳!」の叫びが次々と尾をひいて消えた。
「・・・またやられた!」
大蔵は呻いた。
すると、北の少し涙を含んだ御経の声が聞こえだした。御経は高く低く、切々とつづいた。大蔵はとめ度もなく涙を流した。
三組目の処刑が行われる頃は、もう太陽は高くのぼって、じりじりと地上を照らしていた。
その中でまた激しい空砲の射撃が起こり、重々しい実弾のひびきが「天皇陛下、万歳」のきれぎれな叫び声を一つずつ消して行き・・・そして銃声は止んだ。それきりで銃声が途絶え、刑務所はひっそりと静まり返った。
どこか近くで、油蝉がのんびりと啼き出した。
「おかしいな?」大蔵は首を傾げ、声に出して呟いた。「・・・あれで終りか?」
だが、死刑執行は一応終わったのだ。── 死刑の宣告を受けた十七名のうち、磯部と村中は、陸軍大臣以下、事件中の要路の長官を片端から告訴して責任を追及していたので、生き証人として後に残され、香田以下十五名の元将校は五人ずつ三回に分けて執行されたのだった。
看守の話によると ── 入浴場の西側に掘られた壕は五個あって、その中に元将校を一人ずつ正坐させ、布でくるんだ十字架に首と両手をしばり、目隠しの白布の真中に黒点をつけ、それを狙って一人に一発ずつ撃ち込んだのだった。射撃は、十字架から十メートルほど手前に試験射撃に使う台をおき、将校が照準をつけておいて、
「撃て!」
と命じて、一斉に狙撃したのだ。
安藤の場合は、第一弾が顔に当たって「ウーン」と呻ったので、あわてて第二弾を撃ち込んだが、これがまた中心部をはずれ、三発目は心臓を狙ってようやく目的を達した、という。
また栗原は、十字架に首と両手をくくりつけられた後もなお、
「オレを死刑になんか、できるものか!」
と身体を揺すって叫びつづけた。
そのため弾丸は三発とも致命傷とはならないで、栗原は出血多量のために死んだのだった。
渋川は、銃殺を前にして、
「国民よ、軍部を信頼するな!」と絶叫して、死に就いたという。
「しかし、皆さんご立派でした」と老看守が告げた。「みんなお若いのに、悪びれず、従容しょうようとして死んで行かれた・・・中でも一番若い林八郎さんが立派でした」
林は昨年七月少尉に任官したばかりで、」数え年二十三歳・・・一番年長者の香田が三十四歳であった。
2023/03/20
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