~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第十三章  この事件が落着する前後から、日本はたいへんな面に突入する
第十三章 (6-01)
磯部と村中が「叛乱首魁」として処刑されたのは、それから一年後の昭和十二年八月十九日。── この日、北一輝と西田税も「叛乱を扇動し勅命に抗せしめた」というかどで一緒に処刑された。
北一輝と西田税は、叛乱そのものには直接何も関係はなく、陰謀にも参加していない。むしろ青年将校の動きを危険と見て、事件を起こさぬようにと押さえつづけてきたのである。だが、事件は彼らの希望に反して起こってしまったのだ。そこで北と西田は、起こったものは仕方がないとして、事態拾策に腐心し、若干の上部工作と、電話連絡などで叛乱将校の善処方を要請指示した。それが「扇動」の罪に問われ、極刑を加えられたのである。
北と西田が「死刑」を求刑されたことを知った磯部は非常に憤激し、小笠原海軍中将に獄中からひそかに手紙を出して助命を歎願し、当局の陋劣ろうれつなやり方を痛烈に暴露した。
「── 北、西田両氏の如き人を殺すような日本でしたら、日本にはもはや少しの正義も残っておりません。日本国に少しでも正義が存在して居り、一人でも正義の士が厳存しているからには、必ず両氏は助かると信じます。私は日夜両氏の助かるよう精魂を尽くしてお祈りをしています。必ず両氏は助かります。どうぞこの確信の下に、百方に御手段をお取り下さるように願います。一体、何故北、西田両氏を殺すような次第になったかを探求してみましょう。寺内が重臣と結託して極刑方針で進んでいるからであることは表面の現象です。二月事件を極刑方針で裁かねばならなくなった最大の理由は、三月一日発表の『大命に抗したり』という一件です。青年将校は奉勅命令に抗した。而して青年将校をかくさせたのは北、西田らが首相官邸に電話をかけて『最後までやれ』と煽動したのだというのが、軍部の遁辞です。青年将校と北、西田らが奉勅命令に服従しなかった、ということにしてこれを殺さねば、軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです。即ち慌て切った軍部は二十九日朝青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、更に三月一日、大慌てにあわてて『大命に抗したり』の発表をしました。ところが、よくよく調べてみると奉勅命令は下達されていない。さあ、事が面倒になった。今更、宮内省発表の取り消しも出来ず、それかといって刑務所に収容してしまった青年将校に奉勅命令を下達するわけにも行かず、加ゆるに大臣告示では行動を認め戒厳令では警備を命じているので、どうにもこうにもならなくなった軍部は、困り抜いたあげくのはて、(1)大臣告示は説得案にして行動を認めたに非ず、(2)戒厳令は謀略なり、との申し合わせをして、(イ)奉勅命令は下達した、ということにして奉勅命令の方を活かし、(ロ)大命に抗したり、という宮内省発表を活かして、川島を中心とする、当時の軍部首脳がしたのです。二月事件を明らかにするには、どうしてもこの軍部の大インチキを暴露せねば駄目です『大命に抗したり』『国賊なり』という黒い幕で蔽われたまま、いかに此方が大臣告示と戒厳令を主張しても一切は無駄です。泥棒が忠仁義を説くようなものです。北、西田両氏を救うには、この点を十分に考えて作戦を立てねばならんと思います。即ち軍部のいい分であるところの『青年将校を扇動し勅命に抗せしめたるは北、西田なり』に対して、こちらはあくまでも「奉勅命令は下達されず、下達せざる命令に抗するという理窟なし、抗せざる青年将校に対し、抗したりと発表せる軍閥と重臣との国民に対する責任を問う』と攻撃してゆかねばならぬと思います。『奉勅命令に抗したり否やという問題は、司法問題としては大したことではない、それよりも叛乱したということが大事な問題だ、だから奉勅命令については、われわれ(法務官)は力こぶを入れて調べる必要はない。われわれの必要なのは叛乱の事実だ』というのが法務官のいい分でありました。しかしこれは軍部の極めてずるい遁辞です。すべての道はローマに通ずではありませんが、すべての問題は奉勅命令から発しているのです。ですからその出発点のインチキを先ず第一に攻撃せねばなりません。これがためには川島、香椎、村上らを俎上そじょうにのせねばなりません。これを俎上にのぼすことが寺内を危地に陥れ、湯浅(内府)を落すことになるのです。世間でも、刑務所の同志でもただ感情的に寺内をうらんだりしている風がありますが、ただ寺内だけをうらんでも駄目です。奉勅命令と大臣告示と警備命令(戒厳命令)をしっかり認識して、二月事件当時にさかのぼって堂々と理論的に攻撃し、国民の正義に訴えて、軍部そのものをやっつけることをせねばならんのではありますまいか。ある法務官が私に、『青年将校は偉い、こんな人達を殺すのは惜しい、実は下士官兵を罪にしないことにしたので、青年将校を殺さねばならなくなった』と洩らしましたが、然り、然りです。川島、香椎、山下、真崎らを罪にしないことにして、北、西田を殺さんとしているのですぞ! 三、四附記します。
(一)所謂奉勅命令はとうとう下達されませんでした。私は今でもその命令の内容をよくしらまいくらいです。日本一の大事な命令が、とうとう下達されないでしまったのです。二月二十九日午後、私どもが陸軍省に集まった時、幕僚らが不遜な態度を取って国賊呼ばわりをしましたので、たまりかねて『何だッ! われわれはいつ奉勅命令に反抗したか、奉勅命令は下達されもしないではないか、下達されない命令に抗するも何もあるか』と言いましたら一中佐が『あッ! それはしまった、下達されなかったか、これはしたり!』と言って色を変えたのです。
(二)無能無智なる法務官(検察官)がわれわれに対する論告の時、『日本改造法案』には皇室財産を没収すると書いてあるから国体に容れずと称し、また私有財産百万円限度は、結局私有財産を認めない共産主義におちるのだ、と曲言しました。私は『皇室財産を認めない没収に非ず、下附なり』『私有財産は確認せざるなからず」と著者は断言している等々と言い、『改造法案』については法務官の不明をひどくなじりましたが、彼らは言をひんまげて、北、西田両氏を陥れようとしたのです。法務官は『法案』を咀嚼そしゃくする頭を持っていません。幕僚は一概に『法案』を民主主義と言い張るのです。そのくせ彼等は『戦時統制経済』(対内国策要綱案)を実施せんとしています。これこそ一大鉄槌を幕僚らに加える必要があるのです・・・・(中略)・・・
(五)目下真崎御大は向坂法務官(少将担当)と対戦中らしく、数日前は相当ひどく激論したらしくあります。真崎のいい分は『吾輩は責任なしとはいわざれども、吾輩より当時の陸軍大臣以下の当局者の責任の方を先に調べるべきだ。大臣告示に関しては、川島はじめ軍の長老たる全軍事参議官の責任ではないか、寺内は当然に責任を負うべき也』と仲々いい所を突いているようです。真崎御大があくまで全軍事参議官の責任を主張して進めば、寺内だってたまらなくなるのです。もう一息です。遺憾ながら、刑務所内の戦いはいかに有利でも、暗に葬られてしまうことです・・・(中略)・・・」
磯部はこの他にも軍当局の陋劣な圧制手段を暴露した長い「手記」を書いて、手馴づけた看守に托したり、面会に来た妻にひそかに手渡したりして、外部との連絡に苦心し、闘った。
小笠原少将に宛てた手紙は、「やまと新聞」社長の岩田冨美夫が写しを取り、印刷してばら撒いた。だが結局は当局の弾圧によって、一切は暗から暗へ葬り去られた。
2023/03/21
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