~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 青 年 の 樹 』 ==
著 者:石原 慎太郎
発 行 所:河出書房新社
 

青年の樹 (01-04)
走り始めた電車がレールの継ぎ目でか、大きく揺れた拍子に老婆はよろけて前に坐った若い男の膝に手をついた。男は露骨に顔をしかめ舌打ちをする。老婆は恐縮きょうしゅくして丁寧にびを言った。男はただそっぽを向き隣りに坐った仲間へ何か話しかける。その前に立った二人と、四人一緒の連れにみえる。
その内、今度は片方の老人がよろけて下駄で男の一人の靴を踏んだ。
男は声を出して老人をにらみつけた。
「ちぇ、なにしてやがんだ」
先刻の男が言った。
武馬は予感で父を見返った。達之助は黙って彼を押しのけたそばの男の前に立った。武馬は久し振りに眼をつくった。
「君ら、立ちたまえ」
達之助は言った。
坐っていた男はとがめるような眼で見返し、横に立った二人は囲むように向き直った。
「馴れない年寄りが困っているんだ。立ちたまえ」
立っていた二人が鼻で笑った。坐った二人が肩をすくめ、その片方が、
「勝手じゃねえか、俺だってかったるいよ」
「いいから立ちたまえ」
達之助がくり返した。
「ちぇ、あんたが自分で立つのあ勝手だよ」
周りの人の眼がみんな集まっていた。
「美談ぶるなよ。あんたが立ったのあ立派だろうがね、何も人に押しつけるこたああるめえ」
瞬間、達之助の右手が左右に動いたかと思うと二人の頬が鳴った。
「あん、なにしゃがる」
思わず立った二人をぐいと両方に分けると、
「どうぞ、ここへおかけなさい」
振り返って言う。老人夫婦はおびえたように達之助を仰いだ。達之助は促すように笑った。有無を言わせないものがあった。老婆がおじぎして坐りかけた時、
「なに言ってやがる」
片方が意地になって坐った。と見る間片掌で襟をつかんで引き立てられる。
「どうぞ」」
達之助は押しやるようにして二人を坐らせた。
男たちに振り返ると、
「良い事をして、良い気持ちだろう。どうかね」
四人は毒気を抜かれて突っ立ったままだった。
四人が顔を見合わせた。
「殴るこたあねええだろう」
「殴るさ」
「なにい」
「それが一番早い」
達之助は笑うと横を向いた。
電車は浜松町に入りかかった。
「おい、小父さん一寸ちょっと顔かしてくれ」
「馬鹿にするな、このままですむと思うのか」
達之助はただ彼らに笑い返した。
武馬は父親の肘をつついた。
「何だ手前てめえは」
「私の息子だ」
「手前の親父に用がある」
男が武馬に言った。肘にかけた武馬の手を達之助は押しのけた。
「お父さん、今日は止しなさい」
「いや、いい、お前は先に行ってなさい。後から行くから。こういう連中に言って聞かせることがある」
「やかましいや」
周りの人はすさるようにして達之助たちを眺めていた。
電車が浜松町に着いた。
「おりろよ」
男の一人が達之助の腕をとった。
「もし ──」
老人が言いかけるのを、
「大丈夫、そのままでいらっしゃい」
言うと達之助は囲まれるようにして車を下りた。
振り返って見る男たちの後から、武馬も人をわけて出口へ出た。出ながら武馬は襟のホックだけを外しておいた。
2022/04/03
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